多くのご応募をいただき、ありがとうございました。
みなさまからいただいた「家と家族に関する思い出」のエピソード・写真の中から
入賞エピソードを決定しましたので発表いたします。
我が家にとって二人目(長男)の誕生。 当然ながら、それは今年一番のハッピーなニュースだった。
でも、まだ二歳と少しの長女にとってはかなり複雑な出来事だったようだ。
予定より三週間も出産が早まったこともあり、家は...
大学が終わって終電。
友達と飲み会が終わって終電。
就職活動が終わってまた。
夜、家族が寝静まった頃にそっとかえってきて僕は晩ご飯を食べる...
父の仕事柄、子供時代はずっと官舎住まいだった。
二間続きの小さなスペースに、両親と四人の兄弟が身を寄せるように暮らしていた。
一番大きな六畳間は、リビングとダイニング、そして寝室の役割までこなしており、当然子供部屋なんてなかった。
誕生会を開きたくても、弟たちがいるあの小さな官舎に...
エピソードの続きを読む >>
エピソードの続きを読む >>
エピソードの続きを読む >>
エピソードの続きを読む >>
エピソードの続きを読む >>
いつだって感謝
かなう夢 さんの投稿作品:
おじいさんは、とても厳しくてよく怒られた。
寒い時はストーブの前にいる僕、暑い時は扇風機の前にいる僕。
おじいさんは、「どけ!」と口にする。
僕は、「何で僕がどかなかんのか」と答えると喧嘩になる。でも、
今なら分かるありがたみを。おじいさんは朝から晩まで暑くても
寒くても外で働いていたから。ありがとう!
旦那へ感謝!!
笑顔集め さんの投稿作品:
旦那への感謝の気持ちを大切にしたい。
旦那は家事や掃除、洗濯もしてくれるが出来てないところがあると私は、
きつく言ってしまう。
専業主婦でいられるのも旦那が頑張って働いてくれるから、
それにマイホームも建ててくれた。
私好みのキッチンも作ってくれた。感謝として美味しい料理を作ってあげたい。
ありがとう。
子供と同じ年の家
ねこまる さんの投稿作品:
長男を出産したのが2012年11月、家が完成したのが12月。
ひどいつわりでほとんど家づくりには携われず、主人に任せきり。
そして産後も肥立ち悪くずっと入院しており、その後実家で療養。
結局新しい家に越してきたのは建ってから3ヶ月後。
主人と子供と一緒にせぇ~の!で入居することを夢見ていたので、
とても落ち込みました。
でも、初めて家を見たときの感動と、これから3人で1つの新しい場所を
共有していく嬉しさがこみ上げて、感動して涙が出ました。
これからも子供の成長とともに家も成熟し、私たち家族を支えてくれることでしょう。
はじめマック
函館バーテンマスター さんの投稿作品:
私の子供はマックが好きで、
良くハンバーガーを買いに行っていました。
その頃はハンバーガーが好きだったんですが、
大人になって健康を気にするようになってからは、
全く食べなくなりました。
丁度狂牛病が騒がれた時から、牛肉を食べなくなり、今は魚介ばかりです。
もちろん野菜もいっぱい食べます。
健康に気を使っても、終わりはないので習慣として出来る事をやって行こうと思います。
うちがいちばん
もかあああ さんの投稿作品:
家にいるときが、いちばんのんびりしています。
奇跡のマイホームと強運のファミリー
安塚綾子 さんの投稿作品:
主人から私に 「ママの笑顔が一番」とメールが届きました。
三年前を思い出す。自閉症の息子と妻の親子通園が始まった。
ただでさえ、やりにくい息子の育児に加え、息子は友達を叩いたり、つねったり、噛んだり・・・・と、妻は母親としていつも肩身の狭い思いをしたに違いない。
「なんで息子は障害をもって生まれてきたのかしら…」がいつしか妻の口癖になっていた。
無理もない。ストレスと体力勝負の療育に妻はヘトヘトであった。
以前から痛みがあった妻の左腕はリウマチと診断されてしまい、妻は重たい物を持つことや、ビンのフタを開けることさえも困難になった。
こんな状況にありながら、妻は希望を失わなかった。本当に強かった。
入園前は、とにかく育てにくい息子だったが、辛抱強い療育のおかげで、今では、食事、トイレ、お風呂、着替え、手洗い、配膳といった基本的な生活習慣はほぼ身に付いた。我々の言葉もほぼ理解出来るようになった。
「こうなったら、自閉症の息子を、健常者に負けない超天才に育ててみせる」とまで言ってくれた。
息子だけでなく、健常者として生まれた長女のヴァイオリンの指導にも力を注いだ。
叱ることよりも褒めることを意識し、娘の力を信じて、繰り返し粘り強く練習に付き添った。
今年度は、多くのイベントで演奏させていただく機会にも恵まれた。
ヴァイオリンの弓を力いっぱい一音入魂で全身を使って演奏する姿には、我が娘ながら私にも感動と生きる勇気を与えてくれた。
そして妻は自分の人生も諦めてはいなかった。
昨年、以前から夢だったスウェーデンマッサージで起業するために公益財団の補助金に応募し、わずか2週間で書き上げた申請書は見事に採択された。
そして、今年の自分の誕生日にエステティックサロン Livar(リベル)をオープンさせた。
リベルとはスウェーデン語で人生(liv)と価値(varde)を組み合わせた造語で「価値ある人生」という意味が込められている。
人は誰しも自分の意思と無関係に生まれ、そしてどのような人生を歩もうとも必ず「死」という運命を迎える。
人間はやがて死ななければならないのに生きているのである。
ということは、価値ある人生とは主観の問題であり、ロマンの問題である。人生には客観的意味など全く無いのである。
「どうせ叶わぬ夢なのだ」というのなら、「どうせ死んでしまう人生なのだ」ということになってしまう。
だから「どうせ無理」と安易に夢を諦めてはいけない。
幸せになるためには、戦うことを忘れてはいけない。
厳しさの中にこそ、肩を震わせて泣き崩れるような感動と喜びがあると信じたい。
妻から人生の解のひとつを学ばせていただいた。
そして、妻の笑顔が、私にも人生を切り開く情熱を吹き込んでくれた。たくさんの奇跡“Hoping invites”に心から感謝したい。
最後にバスケットボール選手、マイケル・ジョーダンの言葉を引用したい。
「障害を前にして立ち止まることはない。壁にぶち当たっても、振り向いて諦めてはいけない。どうやってそれを乗り越えるか、突き進むか、回り込めるかを考え出すのだ。」
“Obstacles don’t have to stop you. If you run into a wall, don’t turn around and give up. Figure out how to climb it, go through it, or work around it.”
By Michael J. Jordan
そんな強運な子供達と肩を震わせて泣き崩れるような感動をプレゼントしたくて応募いたしました。
どうぞよろしくお願いいたします。
いつもありがとう♪
アルフェシア さんの投稿作品:
いつもいつも怒ってばかりでごめんね。
怒ってから後悔ばかりしています。
本当は大好きだし、笑顔も沢山くれるので本当に感謝しています。
たくましく育て、孫たち
まろん さんの投稿作品:
二十数年前に祖父母が他界して、両親がその家に移住することになりました。
その時点ですでに私は社会人でしたから、私はそこに住んだことはありません。
でも、小さいころから祖父母の家として慣れ親しんだ家です。
記憶にはありませんが、私の弟の出産前後には、祖父母の家に預けられていたそうで、アルバムの中には、祖父母の家で撮った写真がたくさんありますし、思い出話をよく聞かされました。
祖父母の時代からある家ですから、ずいぶん古い家です。
縁側や土間があったり、台所もおそらくは土間の続きだったであろう作りでした。
壁もキラキラしたのが埋まった土壁で、端っこはお外が透けて見えるすき間があったり。
昔の2階建てなので、構造が甘いのか二階を歩くと一階の天井が揺れる。
お風呂場も小さい飾りタイル貼りで風呂釜は銀色の深い箱型。
「超昭和」感あふれる家でした。
祖父母が健在なときも、木の窓枠を一部分サッシに替えたり、少しずつ小さいリフォームをしていたことは記憶にあります。
両親が移り住んでしばらくしてから、使いやすいように、また老後の生活がしやすいように大リフォームしました。
外観はそのままに、家の真ん中から半分だけをすっぽり現代風に。
車イスなどになってもよいようにすべての段差をなくし、天井を高く、リフォーム側は北側なので天窓をつけて昼間も日光を取り入れられるようにし、オール電化に。
日常生活のメインはすべてリフォーム側。おかげで阪神大震災も大きな被害も怪我もなく、無事に乗り越えることができました。
父は、一生懸命祖父が建てた自慢の家に、半分とはいえ手を入れるのは少し忍び難かったらしく、リフォームした際に思い出にと、もともとあった家の大黒柱を大工さんに加工してもらい、ベンチにして庭に残しました。
これで孫たちが庭でバーベキューとかして楽しめたら、祖父も喜ぶだろうと。
私が子供を出産したときはこの実家へ里帰りしました。
上の子は何事もなく平穏に過ごし、無事出産しましたが下の子のときは大災難に会い、大変でした。
無事出産して退院し、自宅で三日経った晩、台風の直撃を受け、一晩自宅一階がほぼ水に浸かる、という事態に。
祖父母の時代に数回床下浸水はあったそうなのですが、床上になったことは一度もなかったそう。
台風直撃とはいえ、その程度だろうと思い込んでいたのですが、あれよあれよという間に、庭の犬小屋がまるでアジアの水上小屋のように、庭はすべて池になり、ぽっかりと犬小屋だけが取り残される姿に。
あわてて犬を救出に行って、びしょぬれの犬をお風呂場においていたら、今度は、床からゴボゴボ・・・と音がして、
一階の床の隙間という隙間から水が出てきて、赤ん坊から、犬から、貴重品からあわてて運べるものは二階へ運ぶ、という事態に。
気が付けば、よくテレビで見るような、池の中に家の2階だけが見えていて、外を市役所の人が乗ったボートが救助して回っている、というまるでドラマのような光景に囲まれていました。
電気系統はすべてダウンですから、真っ暗で音もしない風景に囲まれて、家の外一面の池に月明かりがキラキラ反射するのを見ながら、二階で家族全員、ろうそくと懐中電灯だけで不安な夜を明かしました。
朝には水が引いたのですが、家財道具はすべてだめになり、リフォームした部分もオール電化が仇になり、すべてだめ。
私は出産直後で、乳飲み子と幼児をかかえて何も手伝えず。そんなときにタイミング悪く、この年、父は町内会長をしていたため、自分の家のことはほったらかしで、数か月の間町内の対応にかけずりまわっていました。
母1人で、親族やボランティアの人たちに手伝ってもらって、後片付けしていましたが、後の処理が大変だったことと思います。
今でも、ふすまや壁などにそのときの水の線がくっきり残っている箇所があります。
それがふと眼に入るとあの一面水浸しの光景を思い出します。
そんな大変な経験もしましたが、数年後、リフォームしたときに父の思い描いた夢は実現しました。
写真は実際にうちの子供たちと従弟でバーベキューをしたときのもの。
座っているベンチは、あのもともと祖父が建てた家に使われていた大黒柱のベンチです。
水害のときに庭の犬小屋といっしょに水浸しになったのに、さすが大黒柱、水害の後もびくともせず、その場に残っていました。
大変な災難にもあったけれども、父の夢が実現できるように、孫たちが健康にたくましく育つのを楽しみに、祖父が守ってくれたのだと思います。
大黒柱は外にいても、家族の心の支えになってくれたのだな、と実家に帰ってこのベンチを見るたびになんだかあたたかい気持ちになります。
記念日
しまちゃん さんの投稿作品:
結婚して、この家に2人で住むことになりました。
1年目に娘が生まれて、4年目にもまた娘が生まれました。
誕生日、クリスマス、お正月をこの家で過ごしました。
この家に来た時は、荷物も少なく生活感もあまりない
家でしたが、時が経ち、家族は4人になり、
子供の洋服、おもちゃ、食器などあれやこれやと…
思い出ともに荷物もふえていきました。
そして6年目の今、
上の娘は5才に、下の娘は2才になりました。
しかし家も狭くなり、引っ越すことを決めました。
あと一ヶ月で、この家を離れないといけませんが、
「ありがとう、私たちの家」
この家なら寂しくない!
ゆゆ さんの投稿作品:
自分の部屋が持てる!
両親が家を建ててくれたとき、中学生の私は単純に嬉しかった。
1階がLDKと和室。
2階が洋室3部屋。
それまで同じ部屋だった弟と、どこを自分の部屋にするのか冗談交じりにケンカして勝ち得たちょっとだけ広い部屋。
好きな壁紙を選び、好きなカーテンを選び…一つ一つが心躍る人生の一大イベントでした。
実際に暮らし始めて数年。
それまで、リビングに集まっていた家族はそれぞれが自分の部屋にこもるようになりました。
1階の和室に母が。
2階の洋室それぞれに弟と父が。
私は一人リビングで愛犬と。
思春期真っ只中の私は、一人でいる方が気楽でいいや、リビングでも部屋でも勉強に集中できるし、とたぶん胸の中で感じていた違和感に気が付かないふりをしていました。
あれから15年。
結婚し、子供にも恵まれ、自分たち家族の家を建てようと考えたとき、真っ先に思ったこと。
どこに居ても家族の気配が感じられる家にしたい。
家を建てるまで、一人の空間なんてない狭い賃貸暮らしでした。
それでもこう強く思ったのは、こどもの頃の私は実は寂しく感じていたからなんだと思います。
私たち家族の家は小さな家ですが、1階も2階も吹き抜けで繋がり、個室もない一まとまりの大きな空間です。
休日でもパソコンに向かい仕事をするパパ。
おもちゃスペースでお絵描きに集中する我が子。
キッチンで料理をする私。
ねぇ、お弁当作って公園に行かない?
行くー!と娘。
行くか!とパパ。
同時に返事が返ってくるこの家。
いってらっしゃい!
おかえりー!
をどこにいても言えるこの家。
ママ見てー!と、黒板に思いっきりお絵描きをしていたり。
階段を使っておままごとをしていたり。
あぁ良い家だなぁと感じています。
それぞれ別のことをしていても一つになれるこの家が大好きです。
家は箱。
箱に命を吹き込むのは家族。
一家族ごとに生活スタイルも思い入れも、願うことも違う住まい。
ただ、共通する思いは‘家族みんなで幸せに暮らしたい’だと思います。
どこで、どんなスタイルの家でも、それぞれの家族に寄り添う住まいにしていくことが大切なんだと思います。
うちの風呂
オハナ さんの投稿作品:
我が家のお風呂はいつも遊び場。
子どもの成長見守る家
てつきち さんの投稿作品:
ちょうど13年前、両親と同居し末っ子の難聴がわかったところが始まり
7人家族で、様々なこと乗り越えてきました
主人がこの家に帰りたくて、無職で単身赴任やめたこと、
末っ子の聾話学校に毎日通ったこと、
両親の病気、義両親を引き取り見送ったこと
そして・・・3人の息子の成長
今まで誰ひとりかけることなく、7人で助け合って暮らしてきました
私のこの家での一番の思い出は、もう記録できなくなった、ロフトにある柱の3人の息子の身長計
これ見ると・・・自分の子育てを振り返り、まだ一緒に暮らせる子どもたちからの恩返し感じます
ホント家とともに家族も年齢重ねて、成長していくものなんですね
僕といぬ
水月 洸 さんの投稿作品:
いぬを家族に迎えたのは僕が小学1年生の時だった。
いつだって僕はそのいぬと一緒にいた。大好きだった。6月に来たから名前は「ろく」だった。
それから数年。僕は学校が実家から少し遠いこと、学校に寮があることを理由に僕は寮暮らしを始めた。
中学生の頃からずっと生活の中心は実家になかった。
それでも休日には「ろく」に会いにいつも実家へ帰っていた。
僕の通っている学校は中高一貫で高校生になっても実家へ戻ることはなかった。
高校生になると勉強や部活で忙しくなり、実家へ帰る回数は減ったが、それでも「ろく」と会うために何度も実家へ帰った。
少しずつ「ろく」は寿命に近づいているようで、実家へ帰るたび僕は「ろく」の衰えを感じた。
高校3年生の時だった。「ろく」は亡くなった。
死に際にどうしても会うことはできなかったのが理由か、泣くことはできなかった。
それから2年。僕は今、大学へ通っている。もちろん実家暮らしではない。
それでも長期休みには実家へ帰っている。僕がいない間に新しく迎えた家族である「ひな」に会いにだ。
連絡をめんどくさがる僕に代わって両親からはよく「ひな」の写真が送られてくる。
「ろく」と同じ犬種であるようだが、「ひな」は落ち着きがなくいつもせわしなく動き、カメラを向けてもなかなかピントを合わせることができない。
この三枚は僕が帰省している間にやっと撮らせてもらえた三枚だ。
こうやって「ろく」や「ひな」の写真を眺めていると、僕と実家を結びつけていたのはこのいぬたちなのだろうと思う。
帰省を面倒くさがり、連絡をめんどくさがる犬好きの僕に「帰ってこい」と言ってくれるのは。
この冬休みももちろん「ひな」に会いに実家へ帰った。
「ひな」は病気にかかり、危ない状況にあったが僕が大学へ戻った後に元気になったらしい。
また、「ひな」の写真を撮り「ひな」の頭を撫でに実家に帰ろうと思う。
キッチン♪
ふうた さんの投稿作品:
いつも仲良しの母娘。何やら娘は小麦粉でメイクタイム?爆笑のひとときでした。
乾杯
タロー さんの投稿作品:
我が家の夕食時、お鍋を前に父母の乾杯のひと時です。
花は咲く。
花姫 さんの投稿作品:
両親が病気や介護のために家を離れてから10年になる。
私が家の管理をすることになり、庭のツバキを自分で剪定した。
間違ったやり方で剪定した為、花をつけなくなった。
ところが、今年は花が咲いた。
昨年の剪定が偶然うまくいったのだろう。
人が老いることは必然的で、花は偶然咲いた。
なんとも言えない気持ちが心にこみ上げてくる。
両親が働いて建てた家をこれからも大切にしたい。
家がつないだ縁
よっしー さんの投稿作品:
私の実家は北海道で酪農を営んでいます。
365日24時間拘束されて、3Kの「汚い・きつい・くさい」
を全面に押し出した仕事を小さい頃手伝っていていましたが
正直つらい気持ちが大多数を占めていました。
親にもつらく当たっていた時もありました。
そんな、私が小学5年生になったときに小さな出会いが訪れたのです。
友好都市を結んでいる神奈川県の女の子が5日ほどホームステイに来ました。
その子はきゃしゃでかわいくておとなしくて、毎日力仕事を手伝っている私とは真逆の女の子。
でも、同じ年で女子だったからでしょうか、その子とは意気投合して毎日仕事しながら遊び、本当に楽しい日々。5日なんてあっという間でした。
その子が帰った後も、文通でやり取りをしようねと約束をして・・・
普通は、そこで縁は切れてしまうものです。
「あの子いたよねー、何してるんだろー」って
でもその文通は高校になっても途絶えなく、社会人になって13年ぶりにその友人と再会し、私の結婚式に来てくれて、その子のおなかに赤ちゃんを見に先日遊びに行ってきました。
友人はこう言ってました。
「あなたの家にホームステイに行けて良かった。それで私は変わったんだよ」
不思議な縁を紡いでくれた父と母はまだ酪農家を続けています。
今なら、酪農家のつらさ、そして素晴らしさを理解できます。
本当にあの家に生まれてきて良かった。
今年、私の弟が実家を継ぎに帰ります。
また、素敵な縁が家で生まれますように。
こわくてやさしい記憶
sana さんの投稿作品:
“壁のシミが人のカタチに見える時は近くにおばけがいるんだよ”
…あぁ、だれが言ったんだっけ?
思い出す。
小学4年の夏だった。
学校でそんな話を聞いて帰った私の目に、家中のシミが飛び込んできた。
トイレには、馬に乗った人。
おじいちゃんの部屋の天井には、髪の長い女の人。
タンスには小さな女の子…
廊下の漆喰が欠けたところは、人の横顔にも見える。
それまで気にもとめてなかったシミや模様が怖ろしくてたまらなくなった。
はっきりと覚えてる。
一番怖かったのは、寝室のふすまのシミだ。
まるで怒った男の人の顔だった。
鋭く釣り上った目に、大きく開いた口からキバがのぞいていた。
ふすまから飛び出して襲いかかってくるんじゃないか…
そんなことを考えると、怖くてこわくて眠れなかった。
「…ママ、聞いてる?」
息子の声に、ふと我に返る。
「ここのところ、おばけみたいで怖いよ」
眠れないといって寝室に私を呼んだ息子の今にも泣きそうな顔。
ベッドの柵の木の模様がおばけに見えるのだという。
「大丈夫、ただの模様だよ」
もう小学生、そんなの怖くないでしょう?…言いかけた言葉を飲み込む。
「よく見て。おばけじゃなくておかしな顔のヘビに見えない?」
そういうと、きょとんとした顔で、もう一度模様をみつめる息子。
「ホントだ!ヘンな顔のヘビみたい」
「ね?おもしろい模様だね。全然怖くないよ」
そういって頭をなでて手を握ると、安心したように目を閉じた。
思い出す。
怖くて眠れないと泣く私の手を握ってくれた、祖母の手の暖かさ。
シミのあったふすまも、家も、祖母も…
今はもう記憶の中にしかない。
あれだけ怖かったふすまのシミが、懐かしくて恋しい。
あっという間に眠った息子の寝息を聞きながら、思う。
いつか息子も、このシミを思い出す日がくるのだろうか…
父が倒れて…
知恵豊富 さんの投稿作品:
昨年夏 父が急に倒れました。
私は長男でありながら40年、年末年始以外は、ほとんど実家に戻らず、全国を転勤して歩く仕事につきました。
父が救急搬送され、ICUに収容された後、実家に一人で戻りました。
翌朝、本当に久しぶりに、実家の庭を歩くと、子供の時私が採ってきたツワブキが庭を飾り、祖父が植えた「難を転ずる=南天」が大木になっていました。
家の応接間には、父の趣味であった俳句の同人である、種田山頭火直筆の句が飾ってありました…時間は止まっていました。
早く帰ってこい…そう言っているようです。
家は、4年前の東日本大震災の被害を受けたままになっていました。
きっと私がもっとしっかりしていたら、すぐに直していたことでしょう…家族と家…切っても切れない関係は、親と子の関係によく似ています。
お互いがお互いを思いやること…私は忘れていました。