準グランプリ

3名様:JCB ギフトカード5万円分

「ただいま」と言える幸せ

みや さん

目の前は山、少し歩けば海、道路では猪やイタチが我が物顔で通行している。そんな田舎に、私はまだ小さいとき越してきた。

「お城みたい!」
窮屈な社宅暮らしが当たり前だった私たちきょうだいは、レンガ造りの大きな家を見上げて歓声をあげた。まだ若かった両親が築いたその家は、比喩ではなく私たち家族の本当のお城だった。

ずいぶん賑やかな家だったと思う。四つ上の姉、二つ上の兄、そして鼻ったれの私。
きょうだいは外で泥だらけになるまで遊んでは、家中を走り回り、家具や壁はすぐに汚れた。私たちがやんちゃをするたび、母は嘆き、父は怒ったが、それでも最後には五人分の笑い声が、広い家の隅々にまで届いた。

春は、母の作った弁当を持ってハイキングに出かけた。
山の中は、見たことのない花や昆虫で溢れていた。小麦粉で練った餌を垂らして、五人が一列に並び川で釣りをした。飽き性の私は、姉の膝で昼寝をしているのがほとんどだったという。

夏は浮き輪を肩に掛けて家を飛び出し、近くの海で飽きるほど泳いだ。兄は穴場を見つけるのが上手く、私たちはプライベートビーチを何箇所も知っていた。お腹を空かせて家に帰ると、庭でBBQ。日が落ちると、いくつもの手持ち花火が弾けた。

小さい自転車から大きい自転車を五台並べて、秋はよくサイクリングをした。父は美しい紅葉スポットをいくつも知っていて、母はイチョウの前に家族を並べてスケッチをした。焚き火で焼いた芋の美味しさは、今でも忘れられない。

めったに雪が積もることはなかったけれど、ごくたまに白い世界が訪れると、私たちは庭に転がり出た。雪をぶつけあい、雪だるまを作り、めいいっぱい冬を味わった。家に戻ると母が小鍋で作ってくれたココアを、ふぅふぅと冷ましながら飲んだ。

私たち家族は、本当によく遊び、よく笑った。くたくたになって家に帰ると、お決まりのように「やっぱり家が一番だね」と笑いあった。

この家に住んで、二十年以上が過ぎた。時の流れに伴い、様々なことがあった。姉の色恋沙汰や兄の反抗期、私の家出、母の交通事故、父の病。

七年前に姉が嫁ぎ、同じころ兄が就職で他県に移った。今は、老いた両親との三人暮しである。いくつかの部屋が余り、テレビのチャンネル争いをすることもない。五人ぎゅうぎゅうに詰まって、十本の足が絡まっていたこたつも、三人だと隙間風が吹くほどだ。

でもそれを、寂しいと思ってしまうのは、きっと贅沢なことなんだろう。

私には今、結婚を決めた人がいる。しかしそれを、なかなか両親に伝えられずにいた。

テレビに相槌を打つ父と、古い家族写真を磨く母。私がいなくなると、この広い家で両親は二人きりで暮らすことになる。父は相変わらず多量の薬を飲んでおり、母は昨年脚を痛めた。そんな両親を二人きりにするのは、心苦しかった。

ある日、三人で鍋を囲んでいるときだった。
「○○君は、酒を飲むんか」
父の口から、私の恋人の名が出るのは初めてだった。父の頬は、熱燗で少し火照っていた。
「将来のこと、もう決めてるんやろ。一度うちに連れてきなさいよ」
母はあっけらかんと告げた。

でも、と私が言いよどむと、父が怒ったように言った。
「年寄り扱いするんじゃないよ」
それは、私がささいな言い争いから家を飛び出したときに、村中を走って探してくれたときの父の顔だった。

「私たちなら大丈夫やから」
母は、私が転んで擦りむいたとき、アロエを貼ってくれたときと同じ顔をしていた。

このうちから出て行くのがいやだったのは、私のほうだったんだな。
そう実感して、居間を見渡した。キッチン、食台、カーテン、ピアノ。どこを見ても思い出が溢れてきて、家族の笑い声が今にも聞こえてきそうだった。私は涙を堪えて、お猪口を飲み干した。

お正月に家族が集まったとき、帰省した姉が言った。
「私、もう三人も子どもがいるくせに、この家に帰るたび「ただいま」って言っちゃうの」
おれもおれも、と兄が便乗する。
「どんなに広くてきれいな部屋に住んでも、俺にとっての家は、この田舎の家なんだよな」

私も同じだった。
家に誰もいないことが分かっている日でも、帰宅するとつい「ただいま」と言ってしまう。
「ただいま」と言いたくなる家族の温かさが、この家には染み付いていると思う。

「好きな時に帰ってきたらいいんよ。うちはいつでも、ここにあるんやから」
母が笑う。父も、新聞を読む振りをして目を細めている。子どもの頃から何も変わらない時間が、居間に流れる。

「ただいま」と言える家がある幸せ、家族がいる幸せを、ひしひしと噛み締めた。そしてこの春、たくさんの思い出を胸に抱き、私はうちを出る。

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