第2回「ありがとう、わたしの家」キャンペーン 入賞エピソード発表!

グランプリ

  • 愛おしい跡

準グランプリ

  • じいちゃんの仕事、かっこいいね!

  • しょっぱいうどんが教えてくれたこと

  • 父のいる家

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野村不動産ソリューションズ株式会社 ノムコムサポートデスク「ありがとう、わたしの家」キャンペーン事務局
TEL:0120-065-614(受付時間9:30~18:10)

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明日に

33zen さんの投稿作品:

昨年まで32年間住んでいた家。
近年の震災などで、耐震に不安を抱き建て替えを考えさせられた家。
長い住んで愛着もあった。
家族でも改築をしよう、このままで良いと、意見は分かれたものの、
東北の地震の日の柱がきしむのを経験し、もう一度同じ様なのに耐えられるのかという、話になった。
写真は,引っ越しを終え、最後に玄関から撮った夕暮れです。
家の風呂場の煙突と映り込むクレーンや足場に、どこも同じように考えていたのかなと。

いってきます!

おーくん さんの投稿作品:

去年の春、僕は沖縄から上京してきました。
帰る場所はいつでも用意されている安心感があります。
それは大好きな家族がいるあの場所。
もっともっと成長して帰るから楽しみにしててね!いってきます!

兄の自覚の萌芽?

おとうとの兄 さんの投稿作品:

私が3歳の頃、弟が生まれました。
当然、その当時の記憶などないのですが、突然、家にやって来た赤ちゃんを前に
「どう振舞えばいいのか分からないのか、急に静かになってたよ。」と母に教えられました。
オモチャのボーリングのピンを手に、モジモジしている様子の私。
でも、ちょっとお兄さんらしく、優しい目で弟を見ている感じもしないではありません。
最近、弟は仕事でとても大変そうです。ストレスなのか、
半年に一度顔を合わせるたび、少しづつ体重も増えてきているようです。
「お、またデカくなったな。痩せないと彼女できないぞ!」
いつも、冗談まじりに少しだけ声を掛けます。
お互いに大人になった今でも、弟を見る目は大きくは変わってないと思います。

世界中のお客さん

aoma さんの投稿作品:

我が家はホストファミリーです。
近所のお友達から世界中の人とお友達になれる家に、とても感謝しています。
まずは、家族の同意がないと呼べません。子ども達は何を感じて何を考えるのでしょう?
まずは不思議がいっぱいだと思います。あまり見かけない人?
日本と外国を調べるために地球儀を見て、時差って何なのか?
言葉が違うし髪や目の色が違う。文化が違う。風習が違う。
日本人も1人1人顔や背丈や性格が違うのとは、また違う。
同じ屋根の下で暮らして、可愛がってもらえる。一緒に遊んでくれる。
大人なのに迷子になって泣いて帰って来る人や、ホームシックで家に帰りたいと泣いてしまう人もいる。
プレゼント交換をしたり、一緒にアイススケートや神社・鍾乳洞やタワーや
ドームや温泉にゲームセンター、パパやママもいろんな場所に連れて行ってくれる。
もちろん大変な事も多いけど 子ども達だけではなく、夫婦も一緒に楽しめる事が最高の幸せです、

母さんへ

ゆぴん さんの投稿作品:

実家に帰省したとき、娘が下駄箱の壊れていることに気付いた。それは、ずいぶん前に私が壊したときのものだ。修復されずにそのままになっている。

それは、もう22年前の冬のこと。私の両親は、マイホームを購入した。
節約に節約を重ねて、やって建てることができたものだ。
しかし、当時の私は受験生であり、直前に迫ったセンター試験の重圧のため、
環境の変化に順応できず、何かにつけては、母さんに向かって新しい家を批難していた。

「畳が違うから寝にくい」
「トレイがうまく出来ない」
「高校が遠くなった」

やがて、センター試験のその日、思い通りの結果が残せなかった私は、家に帰るなり、
下駄箱を蹴って壊した。しかし、母さんは、私を責めるのではなく、「まだ大丈夫だから」と、逆に勇気付けてくれた。

私は、高校生になっても母さんの愛情を確かめずにいられない、
駄目な子供だった。当時のことを謝罪できずに時間だけが過ぎてしまった。
この場を使って、謝らせてほしい。面と向かって、このことを話題にすることすら出来ない、情けない息子でごめんなさい。

そして、ありがとう、母さん。大学時代の数年間だったけど、
母さんとあの家ですごせたのは、本当によかった。
またすぐに帰るから、大好きな娘と遊んでね。娘も、母さんと家がすごい好きだよ。
私が母さんを喜ばせられるのは、娘を連れて帰省することくらいしかないんだ。

ごめんね。そして、ありがとう。

ふみ月 さんの投稿作品:

実家の最寄り駅で降りた。慣れ親しんだ商店街を抜け、住宅街を歩き、いつもの景色がそこにある。
あるはずだった。

そこは、更地に変わり果てていた。
ちょうど工事の人たちが引き上げるところで、最後のトラックの荷台には、残土とともに掘り起こされたススキが風に揺れていた。

実家は借家だったので、いつかそんな日がくるだろうと思っていた。
思ってはいたものの、大家さんから立ち退き依頼があったと母から聞いた時は、まるで余命宣告を受けたかのようにショックだった。

「今度の家には、お風呂があるんだって!」
アパートで生まれ育ち、3回目の引越しでやっと風呂付きの家に住めることになったのは、
私が中学生の頃。4畳半の私の部屋には、好きなアイドルのポスターを天井にも貼った。

弟は、さらに狭い3畳の部屋だったけれど、毎月のように模様替えをして、毎日のように友達が遊びに来た。

母は、庭に四季折々の草花を植えた。
「鳥が実を運んできて、それがこんなに大きくなったのよ」
と、帰省するたびに太く大きくなっていった木の名前、なんだったのだろう。今度聞いてみよう。

金魚すくいが得意な父は、捕った金魚を大きな水槽で育てた。
水替えのたびに水槽に指を入れ、舐めて確認する父。
鯉のように大きく育った金魚は、父の自慢だった。

夏休みに引越しの準備を手伝うため、帰省したのが最後となった。

天袋から、埃まみれの紙袋。
「ちょっと、やだ。お母さんたら、お父さんのお葬式の香典袋!」
なんと母は、いただいた香典袋を全部取っていた。もう、27年も経つというのに。一緒に部屋を片付けていた弟と笑ったあと、二人とも黙ってしまった。

目を閉じれば、ガラガラと玄関を開ける音が聞こえる。
仏壇には、母が育てた菊の花が活けられている。
塀の上にご飯粒を置く母。スズメがよく来ていたっけ。
おじやを作ってくれた父の背中。
私の娘と姪っ子が積み木で遊んでいる。
浮かんでくるのは、楽しかった思い出ばかり。

ごめんね。
大好きだった家を守ってあげられなかった。

桜草も紫陽花も椿も、高校の卒業記念に植えた雪柳も。

娘と姪っ子と弟と義妹と私の背を測った柱も。

更地になった実家跡地は、驚くほど狭かった。

実家はなくなってしまったけれど、私の胸の中でこれからもずっと生き続けるだろう。

私を守り、育ててくれた私の家に心からのありがとうを贈りたい。

今はなき「夢の家」にホームシック?!

ほんままゆみ さんの投稿作品:

富士山を臨める海沿いの地に、私の故郷はあった。
花の十六歳を迎えた夏まで、幼少期を過ごした原点となる地だ。
ちょうど半世紀の私の人生の中で、その半分、四半世紀は、両親と共に過ごした。
家を出て独立した時期、海外ボランティアを経て、
帰国と共に結婚してしまい、私の家は、両親の家ではなくなった。全部併せて五十年。
もちろん今、子どもたちに囲まれた我が家が一番だけど、
振り返ってみると、両親と過ごした、今はもうないあの家が懐かしい。

私が物心ついた時は、アパート暮らしで、隣に住む仲良しの友達がいて、
共同風呂に共同洗濯所。今はなくなった隣近所の付き合いが残る、温かみのある生活だった。
小学校入学に合わせて郊外の家に引っ越した。夢のマイホームは、海岸道路に面した田舎。
街中(なか)の暮らしや、今までのお付き合いから離れた新天地での生活が始まった。
最初のうちは、よそ者みたいで、慣れなかった。見た目はいまいちだけど、
住み易く、よく友達が遊びに来る家だった。水洗トイレは近所で家だけだったから、珍しがられた。
海岸は私たちの遊び場だった。
毎日、日によって形を変える海岸の様子。大きな石が力強い波に押されて、
長い丘ができていることもあったし、なだらかに均されている日もあった。
いずれにしても次の朝には跡形もなく、別の景色が作られているのだ。
砂利や石で覆われた海岸だが、時に、粗めの砂浜が顔を出すと、近所の友達といろんな陣地を作った。
堀を廻らした砂上の城は、趣向を凝らしても、すぐに波にさらわれてしまった。その頃の最大の敵は大波の軍勢だった。
台風が来ると、家の隣の松林を揺らし、荒波の音が夜中(よるじゅう)聞こえていた。
本好きな子どもの私でさえ、毎日外で遊んでいた。雨の日がつまらなかった。

私の幼少期を過ごしたその地を離れ、父の生まれ故郷である関西に移った。今もその町に実家はある。
引っ越した当時、富士山と海が恋しくて堪らなかった。
波の音を子守唄のように聞いていたのだから、海のないその地は、まるで別の国に来たようにも感じた。
言葉も違う、食べ物も違う、あれもない、これもないと、
ないものねだりで、誰にも言わなかったけれど、
帰れない家への、こんなホームシックもあるんだと知った。

関西で暮らした時期や、海外での暮らしも経て、日本の良さも知り、
今はどんな所でも、自分の故郷のように暮らせるようになった。
そして、自分の求めていた故郷がなんとなく分かった気がしている。

弟の家族と一緒に、赤ちゃんだった長男をおぶって、その海沿いの家を訪ねたことがあった。
毎日、日替わりの丘を作っていた海岸はテトラポットに塞がれてしまっていた。
また、私たちが十年住んだ懐かしい家は、すっかり壊されて平地になっていた。
父が半年も掛けて、積んだ石垣も垣根も何もかもなくなっていた。
今、同じ市に訪ねる親戚はいても、私の家はなく、
昔の友人ともなしのつぶてになった。本当に帰りたい場所はもうない。
私の心の中にだけ、いつまでも波が寄せていて
、晴れた日にくっきりと富士山を臨むことのできる、夢の家がある。
思えば、いつまでも残るものは存在しない。世界遺産ともなれば、
大勢の人が、守ってくれるけれど。人も家も街さえも移ろっていく。
残ったのは、富士山と海だけ。景色も人も変わってゆく。
私の心にしか残らない家だけれど、そこに家族がいたから、大切なものになることができた。

私も弟も家庭を持ち、孫たちに囲まれた両親。関西の家も新築して、
毎年帰省するたびに母の育てる花の美しい玄関前で記念撮影をした。
子どもたちの数が増え、成長し、私たちも年が増え…。父も、二年前に還らぬ人となった。
今まで失くしたものが多かったけど、最終的に父にはかわいい孫たちを見せてあげられた。
母にも、最期の時まで、花に囲まれ、家族に囲まれていてもらいたい。
私も、財産である夫と子どもたち以外は何も持っていないけれど、これからもっと大切な思い出を作っていこう。
きっと、もう暮らすことのできない私の夢の家以上に、かけがえのない家を築けるだろう。

幼なじみの「のんちゃん」

みどりがめ さんの投稿作品:

3歳のとき、私は今の家に引っ越してきました。
幼なじみの「のんちゃん」は、先に隣の家に住んでいました。
私と「のんちゃん」は同級生、私の姉と「のんちゃん」の兄は1歳違いということもあり、
まさに勝手知ったる隣人同士という感じで、お互いの家を行ったり来たりと、ほぼ毎日、遊んでいました。
ゲームがどこに収納してあるのか、おやつがどこから出てくるのか、
今日はどこどこの部屋の電球が切れたなんていうことまで知っていたと記憶しています。
写真は、小学校の入学式の時、私の家の玄関で撮った一枚です。
隣の隣の家に住んでいた一つ年下の「あっこちゃん」も一緒に、
三人並んで仲良く映っています。左から私、真ん中「のんちゃん」、右「あっこちゃん」。
幼いころの私は結構な人見知りで、小学校への入学が楽しみというより、
新しい生活への不安の方が大きかったのですが、
そんなときにも頼もしかったのが「のんちゃん」の存在でした。
結局、学校へ行くのも、帰ってから遊ぶのも、いつも一緒。
夏休みは、ラジオ体操に二人で早起きして出かけ、
家に帰って朝ご飯を食べた後にまた遊びに出かけるという毎日でした。
そんな「のんちゃん」は、小学校2年生の終わりに突然引っ越していきました。
ケータイもメールも無い時代です。数年は年賀状などのやりとりをしていましたが、
結局いつしか疎遠になっていきました。

実は最近、フェイスブックで「のんちゃん」を発見しました。
早速、アプローチ開始。
「あの~オレ、分かる?」
「え~っ!!メチャクチャ久しぶり!!」
結果は見事成功。
今は遠くに住んでいるけれど、近くに行く機会があれば是非会おうという話をしています。
小学生の記憶しかないし、その頃の写真しか持ってないわけだから、その時は、この一枚を片手に待ち合わせをするのでしょうか。
今はお互い31歳。
いくら幼なじみだからって、大人になった顔ではきっと簡単には気がつかないだろうな。

たえばあちゃんのいる家

雨の日も笑顔 さんの投稿作品:

『綺麗だよーっ綺麗だよーっ
大きくなったんだねーーっ
あんなに小さかったのに
いつの間にか.....
とうとうこの日が来てしまったんだね
ばあちゃん さびしいーーーっ
ばあちゃん さびしいーーーっ』

そう言いながら、
孫のそばで涙する
たえばあちゃん

たえばあちゃんのいる家

友人の妹は たえばあちゃんと過ごした生まれ育った家から
新たな旅立ちを決めた

たえばあちゃんの孫である友人が
妹の旅立ちの日 素人の私にカメラマンを頼んでくれた

カメラをたえばあちゃんに向けると

たえばあちゃんは 式の間中
孫の晴れ姿に
嬉しくて泣いて
寂しくて泣いて
孫がかわいくて泣いて
でもやっぱり 寂しくて泣いて

ファインダーを除きながら
たえばあちゃんを見ていると
涙がとまらなくて 何度もカメラを下ろして
ポケットのハンカチを取り出した

たえばあちゃんのいる家

私の友人が不在でも
近くを通ったら 立ち寄りたくなる家

友人が不在でも
たえばあちゃん郷土料理教室が時々開催される家

友人が不在の時
友人の自慢話をいつも聞かせてくれる
『うちの孫は本当にかわいい
人から好かれるし なんでも起用にできる』

たえばあちゃん不在の時
友人のFacebookを覗くと
友人といっしょに小旅行をしているたえばあちゃん
友人をカフェでお茶している たえばあちゃん
今年で83歳

たえばあちゃんのいる家

いつも温かく迎えてくれる
みんなの 相談所
みんなの やすらぐ場所

たえばあちゃんのいる家

ずっとずっとそこにいてほしい
ずっとずっと元気でそこにいてほしい

見守っていて下さい

りんれなりん さんの投稿作品:

「ただいまー!」といって勢いよくドアをあける。
風にのって甘くていい匂いが全身を包み込む。
今日はパンケーキだ!

母は学校から帰ってくる時間にあわせて、いつもおやつをつくってくれていた。
母が家にいると、家の中はいつでもいい匂いがする。パンケーキの匂い、煮物の匂い、ハンバーグの匂い...
そして、母の匂い。
それが、「ああ、家に帰ってきたんだな。」と心から私を安心させてくれる。

家は狭かった。
広いお家はいいなぁと憧れる気持ちもあった。でも今は、匂いを感じられる距離にいて、よかったんだと思う。
母のいるいい匂いのするキッチン。
妹とよくけんかした二人で一部屋の六畳間。
父がいつも寝転がってテレビをみているリビング。
みんなで川の字になって寝た和室。
全部の部屋に思い出がある。
そういえば、和室のタンスの上には毎年母が雛人形を飾ってくれていた。そして庭の洗濯機、冬は寒かったなあ。
いろいろなことを思い出す。

そのすべてが、今の私をつくってきた。
家はじっと家族みんなを見守ってきてくれた。
どんなときも。

今、新しい家族と新しい家に住む。
今年は私が、子どもたちのためにタンスの上に雛人形を飾った。

もう少ししたら、パンケーキを作って私もこの家を、いい匂いでいっぱいにしよう。
安心した心からの
笑顔を守っていけるように。
大人になるまで、いろいろな思い出をつくっていけるように。

どんなときも、ずっと見守っていてくださいね。

わたしの家と30年

びあーどパパ さんの投稿作品:

“わたしの家”は、郊外団地の戸建住宅です。
家には父の手入れした、芝生の緑いっぱいの庭があります。
いわゆる庭付き一戸建てというやつです。

今から30年前―
幼い頃の私は、夏が来るたび、姉と一緒に
ビニルプールを引っ張り出しては、庭で水遊びを楽しんでいました。
「本当にプールが好きだねぇ。」
両親は、わたしたち姉弟に向かい、よくそう言いました。

あれから30年―
わたしは、夏が来るたび、“わたしの家”に帰り、
わたしの子どもと一緒にビニルプールを引っ張り出しては、庭で水遊びを楽しんでいます。
「本当にプールが好きねぇ。」
両親は、わたしの子どもに向かい、よくそう言います。

“わたしの家”は、今も30年前もなんにも変わりはありません。
でも、ビニルプールの中から、あらためて“わたしの家”を見上げたとき、
経過した時間をなんだか感じ取ってしまいました。

みんなで眠る場所

sana さんの投稿作品:

毎晩21時。

「ママ、一緒に寝てね」
「ママ、いっちょにねてね」
「分かった。あとで行くから先に寝ててね」

そういって、寝室にむかう息子たちとハイタッチをする。

年長の長男と、もうすぐ3歳の次男。
いつの間にか2人で寝られるようになった息子たちを見送って、
その成長に幸せを感じる瞬間。

・・・・・・
思えば長男は、年中までは私がそばにいないと眠れなかった。
赤ちゃんの次男と一緒に長男を寝かしつけながら、
私も朝まで眠ってしまう毎日。

最初の転機は、長男が年中の夏。
私が仕事に復帰した時だった。
夜は家事が出来る唯一の時間。
子どもたちと一緒に寝てしまう訳にはいかなかった。

長男は1人で寝室で寝るように説得し、
次男をおんぶするか、リビングで遊ばせながら家事をした。

長男は一人では怖いといって、電気を消して眠れなくなった。
次男が寝るのは毎日24時過ぎ。当然朝起きられなくなった。

このままではいけない…
「2人で一緒にねんねしてみたら?」
去年の夏、2人にそう提案してみた。

最初は喜んで寝室にいった2人。
すぐにケンカをして、お互いに言いつけ合いにきたり、
なかなかうまくいかなかった。

「ベッドで遊んじゃダメ!夜は寝る時間だよ。
ママはお家のお仕事が終わったら一緒に寝るから。
静かに待っててね」
「分かった。ママ、ぜーったい一緒に寝てね」

そんな会話を繰り返した。

そうしていつの間にか…
本当にいつの間にか、2人で一緒に眠るようになってくれた。
長男も次男が一緒にいれば平気だと、電気を消すことが出来るようになった。
もちろん、子どもたちなりに不安や寂しさもあるのだと思う。
ベッドの周りは、たくさんのぬいぐるみが置かれるようになった。

「一緒に寝るよ」
だってそんな約束をしても、結局家のことが終わるのは2人が眠った後…

シングルベッドとダブルベッドをつなげた狭い寝床。
縦横無尽に眠る子どもたちとぬいぐるみたちをかき分けて
そっとベッドのはしっこにすべりこむ。
夫も含め、同じ寝室で家族4人で一緒に寝ているから、
狭いのはもちろん、布団の奪い合いは日常茶飯事。
掛け布団がなくなって、寒さで目を覚ます冬の朝…
寝ぼけた子どもたちからのパンチやキックの洗礼なんて毎日のこと。

だけど、そんな瞬間ですらなんだか愛おしいと思う。

今年4月。
長男は小学校に入学する。

子ども部屋にダブルベッドを買う案やデスク付のベッドを購入する案もでた。
でも、今回は見送ることに決めた。

子どもたちの成長とともに、家は変わっていかなければいけないと思う。
だけど、男子2人。
親と一緒に寝てくれるのは後少し…
もう少しだけ、この時間を味わっていたい。
今この瞬間にある時間を大切にしたい…そう思ったから。

そんなことを思いながら、今日も息子たちとハイタッチをする。
「一緒に寝ようね。待っててね」

「ありがとう パパ」

シリウス さんの投稿作品:

私たち夫婦は、まだ バブルの残り香が残っている頃、結婚しました。
時代に勢いがあふれていました。
ただ、マイホームはべらぼうに高く、とても買えなかったので、
賃貸アパートで新婚生活をスタートしました。
子どもが1人増え2人増え、思い切って家を購入しました。
交通は便利だけど、とても小さい我が家でした。
そして、35年の長いローンの旅が始まりました。
子どもたちの成長にあわせて部屋割りを変えながら 家具を選んだり、
小さい我が家は、ちょっと狭い分 家族の温もりが伝わって
狭い!と文句を言いながらも 家に帰るとほっとする場所でした。
このしあわせな時間が ずっとー流れていくと思っていました。
年老いて ローンが終わるころ、この家を手放して、
夫婦で田舎に住もうかと、夫と未来を語っていました。

そんな 我が家に 突然黒い影が 忍び寄ってきました。
末っ子が生まれて 間もない頃
夫が日常会話の中で 「きゅうりって 何?」と 聞いてきました。
何言ってんの?????
わかるはずの旧友のことも 全く「知らない人」に なっていました。
背筋がぞっとしました。不安にかられながら、
「仕事は、休めない」と渋る夫を無理無理、
大学病院に連れて行って 検査をしてもらいました。
結果は、若年性認知症でした。原因不明・治療法なし。

診断から1年ほどで仕事ができなくなり、
判断能力がなくなった夫の代わりに、私が会社に呼ばれました。
会社からは、退職か休職してほしいということでした。絶望的な宣告でした。

病気になる前の夫は、寝る時間もあまりないくらい働きづめでした。
休日も携帯とパソコンでトラブル対応をしていました。
だからこんなことになったんじゃない!という慟哭が私の心に響きましたが、
どうすることもできず、退職を選びました。
しばらくは家で過ごしていましたが 認知症が進み、入院を余儀なくされました。
そんな中 夫の状態が高度障害と見なされ 住宅ローンの保険が下り、
急に、この家は、私たちのものとなりました。
ローンの旅は あまり望まない理由で終わってしまいました。

そして、夫は、この家には いない。
家で、一人でコーヒーを飲んでいると、小田和正さんの「たしかなこと」の
フレーズが浮かんできます。
「時を超えて 君を愛せるか
本当に君を 守れるか」
もう、夫は、子供たちのことも私のことも自分が誰かもわかりません。
前頭側頭葉型なので 言葉をかわすことは全くできません。
どんな大事なことも私一人で決断するしかなくなりました。
どうゆうふうに生きていいのか、わからなくなりました。
絶望のどん底で全部投げ出して死んでしまうほうが楽だと思った時期もありました。

頭の中では、ぐるぐる破滅のストーリーが回っていたけど、
実際に握りしめた子どもの手は 小さくてやわらかくてあったかいです。
視線の合わない夫の手もあったかくて、「ありがとう」っていうと 少し笑顔になります。
生きてることは ステキなことなんだなあと思い直しました。
悲しみに寄り添ってくれる友だちに、たくさん愚痴を聞いてもらいました。
試練を経験することで、本当に大事なものと、そうでもないものがはっきりしてきました。
そして、余計なものをそぎ落として、雑草のようにひたむきに生きられたら、
それでいいなあと思うようになりました。

夫は、病院で穏やかにすごしています。前頭葉がダメージを受けることで
怒りっぽくなる場合もある病ですが、夫はとても穏やかで。
病院のみなさんから やさしい方なんですねと 言ってもらっています。
夫は もともとがまん強く無口でした。
この家で暮らしていた頃から やさしい言葉をかけるような人ではありませんでした。
夫は 仕事。私は 家事。と 分業して それが 特に不満でもありませんでしたが
今思うと、夫は、やさしさを言葉に出すことが苦手だったのかもしれません。
夫の心は、ずっと、私たち家族を守ろうとしてくれていると思います。

「ありがとう、パパ」その言葉を伝えるために、面会に行きます。
数か月おきに 少しだけ夫が家に戻ってきます。
要介護5なので、在宅介護は壮絶ですが なんとなく家が華やいでいる気がします。

ちょっとだけ大きな家

satorin さんの投稿作品:

こんな家にずっと住みたかった。
こんな大きなクリスマスツリーが置けるちょっとだけ大きなお家。

憧れが現実に・・・。

今こうして娘たちが大きなクリスマスツリーに飾り付けをしてくれる。

毎年娘たちと飾りを考えるのが楽しみ。

家族写真

satorin さんの投稿作品:

やっと手に入れたお家に白いソファを置きました。
このリビングにみんなで楽しく集まれるように。

毎年ここで家族写真を撮ります。

いつもばらばらな感じな写真になるのだけど、これがまた我が家っぽくって。

こうやって家族4人でいつまでこの家で暮らせるだろう。
あと何回ここで家族写真が撮れるだろう。

オワリそしてハジマリ

れおなるど さんの投稿作品:

戦前に建てられ親子3代を育んできた我が家。
しかしその懐かしい姿は火によって無残な姿となってしまった。
しかし、新たな伊吹を吹き込み、これからも我々を暖かく支えてくれる家ができた。

巨大地震に耐えて

エリック さんの投稿作品:

2011年3月11日、震度7という信じられないほどの揺れが襲ってきた。
築100年の木造住宅で耐震の装備もない我が家は全壊するかと思われた。
奇跡的に全壊に近い半壊で踏み止まった。
あたりの家はかなりの率で全壊し更地となってしまった。
東に幾分傾きかけた家を元に戻し、壁がはがれおちてぼろぼろになっているところを補修し
何とか人が住める状態に復帰したのは2年後だった。
大工さんによると「この家が倒れなかったのはがっしりとした昔ながらの箪笥があって
筋違の役割をしていたからだね」ということだった。
仙台箪笥という当時はどこの家にもあったような古びた箪笥だが、
家の傾きかける重圧に耐え抜いたのだった。
この箪笥の中には国旗や代々受け継がれてきた仏具、そして
思い出写真などがしまってあった。
家が崩れかかったとき、先祖の霊が必死になって守ったのかと思える。

1978年の宮城沖地震の際も震度6の激しい揺れだった。
この時は壁が少々はがれただけで家には被害はなかった。
父は「柳のように揺れに逆らわず揺れていたから壊れなかったのだよ」と笑っていた。
私の家には筋違というものがほとんど入っていない。それで揺れには極めて弱いはずなのだが、
たびたび襲ってきた大地震にも生き残ってきた。
それでなんとなく我が家は地震には強い家だと思い込んでいた。
それが今回の空前の大地震でさすがに大打撃を受けた。
近所の人から「さっぱりと取り壊して新築したら」と勧められたが、
私には18年暮らした思い出が色濃く残っている、いわば神殿のような家である。
家の中に入った瞬間から酸素が一杯にあふれ、畳の上に大の字になって寝ると
体の隅々までのびのびと感じられる。
体全体が柔らかい空気に包まれていくような感覚である。
目を閉じると父と母と3人で暮らした生活の場が常に鮮やかによみがえってくる。

18歳で家を離れ東京暮らしを始めてから何度も引越しをし、
今は茨城県に家を建てて暮らしている。
もう茨城で暮らした年月が26年にもなったが、幼い時から青春時代まで暮らした家は
単なる建物ではなく、聖なる館なのである。
我が家には毎日茶飲み客が来た。玄関から茶の間の炬燵まで一跨ぎの距離である。
「こんにちは」という声がしたかと思うと、もう炬燵の前の座布団に座っている。
母が茶を入れる。お茶菓子を出す。世間話に花が咲く。また客が来る。
ますます賑やかになる。この光景が半世紀以上も続いた。

母が他界し、父が一人残されたが来客の数は減らなかった。
姉二人が交代で父の世話をしに仙台から60kmを通った。
茶の間は相変わらず賑やかだった。やがて父が逝ってしまう。
一番上の姉が家の守りについた。そうして3月11日の巨大地震を迎える。
姉は幸運にも家を飛び出してけがもせず避難所暮らしをすることになる。
傾いた家はしばらくそのままになった。
建築業者がてんてこ舞いでなかなか修理の仕事に取り掛かれなかったからである。
私の神殿がブルーシートをかぶったままで風雨を凌いでいた。

我が家は敷地56坪、建坪27坪の「小さなおうち」である。
この小さなおうちが私の極楽だった。
18歳まで恥ずかしながら私は一人で他人の家に泊まったことがなかった。
内気なせいもあったが、それ以上に我が家があまりに快適で
外へ行きたくなかったというのが実情だ。
両親は私があまりに内気なので心配していたと思うが口には出さなかった。

18歳を機に私は広い世界へ飛び出していった。24歳の折には世界一周の旅に出た。
アメリカではウエイターの仕事もした。
「君は勇敢だね。性格も外向的で快活だ」と言われることが多い。
18歳までの私を知る人たちは別人じゃないかと思っているに違いない。
振り返って見ると私は十二分に「我が家」で休息を得たのだと思う。
卵の殻を割って雛が外界へと飛び出すような感じだった。
その「時」が来るまで私は好きなように我が家の心地よさに浸っていた。

雛から大人の鳥になり大きく羽ばたいていったのは確かだが、
私にはいつも帰れる安住の棲家があった。
父と母がいつでも待っていてくれる母港があった。世界のどこにいても
心は宮城県登米郡迫町佐沼小金丁9番地だった。
いつでも帰れる家に今は誰もいない。
毎日来てくれた近所の人たちもほとんどが他界してしまった。
誰もいない家、それでも私には
思い出の家、宝石の家、先祖が宿る掛け替えのない家である。

夕暮れ二階の私の勉強部屋から西の空を見ると柿の木の枝を通して夕焼けが美しい。
階下に大声で「きてみらいん(きてごらん)。きれいだよー」と両親を呼び、
3人で見事な光景に見入っていた。
春の夕暮れ、秋の夕暮れ、いずれも息をのむほど美しかった。
親子で自然の芸術を味わう一時だった。
夕暮れ、影絵のような3人の姿が今でも髣髴となる
すさまじい天変地異にも耐え残った懐かしの家、ありがとう私の家。

父のいる家

MA さんの投稿作品:

社宅を転々としていた我が家が初めて自分達家族の家を持ったのは、
私が小学校三年生の時だった。
子供達が寝静まってから、小さな居間で父と母が一枚の紙を前に、
難しそうな顔をしたり、笑ったりしながら
毎晩話し合いをしているのをこっそり見ていた私は、
ある朝テーブルに残された一枚の広告から、
その話し合いが家を買う準備のためのものだと知った。

それからしばらく経って、私と弟は一軒の家に連れて行かれた。
ここに引っ越すのだと言う。
それは、部屋数は多いものの、古くて、少し変わった間取りの家だった。
1階と2階の間に天井の低い小さな部屋があったり、3階に続く隠し階段があったりと、
まるで忍者屋敷のような家だった。
少し前に、近所に住んでいた仲の良い友達が、家の中に螺旋階段のある
美しい洋館に引っ越していた。
自分の部屋が与えられたことは嬉しかったけれど、
描いてたものとは違う家を見て、少しがっかりした。
父は、友人や親類をこの家に招くのが大好きだった。
納戸まで案内して、自慢の家だと言っているのを聞いたことがあるが、
私には、この古い家の何が自慢なのか分からなかった。

大学を卒業し、家を出た。
その数年後、父が亡くなった。
しばらくして弟が海外に転勤になり、
一人になった母が病を患い家を出たあと、家は無人になった。
家の中に流れていた時間が止まった。

あれから何年経ったのだろう。
昨冬、久しぶりに家に戻った。この家を、売却しようと思ったのだ。
必要な書類を取り出すために開けた金庫の中に、一冊の古いファイルを見つけた。

綴じられた沢山の書類の山の中に、懐かしい父の文字。
家の購入に至るまでの日記、ローン返済のためのシミュレーション、そして、
その昔、私が見たこの家の広告。そこには家具の配置が何通りにも書き込まれていた。

父は、自分の夢を叶えるために、祖父母の反対を押し切り学業の途中で上京し、
文字通り、裸一環で人生を切り開いてきた。
沢山の苦難があったが、何より一番辛かったのは、帰る家がないということだったという。
自分の子供達には同じような思いをさせたくない。

螺旋階段は叶わないけれど、子供が楽しめるような家を探して、
それが一風変わった間取りを持つこの家だったこと。
私の弾くピアノが家のどこにいても聞こえるよう、何度もピアノの置き場所を考えたこと、
自分の部屋はいらないが、子供達にはそれぞれ部屋を与えたいこと、
その代わり、家族の姿がいつでも見えるように
居間の隅に専用の小さな椅子を置きたいこと、
将来はこの家を子供たちに譲り、自分は屋上に小さな部屋を作って、
そこから家族を見守って人生を終えたいこと。
日記は、この家へ引越しをした夜で終わっていた。

若い時に抱いた夢は、残念ながら叶うことはなかった。
しかし、癒しや安らぎ、明日への活力を与えてくれる家族と家、
自分の夢よりもっと大きな財産を持つことが出来たことの嬉しさで締めくくられていた。

外は日が落ち始め、電気もガスも止まっている家の中は
外とさほど変わらぬ寒さだったと思う。
でも、不思議と寒さも寂しさも感じなかった。
日記から目をあげる。父がいつも座っていた椅子は、あの時のままだ。
この部屋には、まだ父がいる。今もあの場所で、私達を見守ってくれている。

今年、父の23回忌を迎える。父に報告しよう。
私は、この家に戻る。この家は、私が守る。
父の日記の続きは、私が紡ごう。我が家の歴史は、再び始まる。

おかえり

えりえり さんの投稿作品:

私の生まれ育った家は古い。
それもそのはず、私の祖父母が建てた家で
私が上京して家を出るまで、三世代が一緒に住んでいた。

引き戸の玄関、急な階段、
北側にある寒いお風呂。
キッチン・リビングなんてものはない。
あるのは台所だけ。

当時の私は、新しく綺麗な家に憧れ、
一度でいいから高層マンションに住んでみたい
とすら思っていた。

そんな私も結婚し家庭を持ち、
いつか持ちたいと思うマイホームはやはり一戸建て。

アパートでの一人暮らしを経験し、
自分の育った家の温かさを実感した。

ガラガラ…と玄関を開ける音も
階段からジャンプして怒られたことも
ひしめき合って入った狭いお風呂も
寒い日の石油ストーブの臭いも
…どれも思い出すと温かくなるものばかり。

いつも笑顔で「おかえり」と迎えてくれた母と祖母。
私も母となり家族ができ、
母や祖母のようになりたいと思う。
そして、そんな風にあたたかく迎えられる家をつくりたい。

ちょっとずつ

hana さんの投稿作品:

長男が小学校に入学すると同時に、家を新築した。35年ローン。
父ちゃんが68歳になるまで、頑張って働いて返済していく予定だ。

そんな我が家の子供たちは、男の子三人兄弟、
よくも悪くも、毎日にぎやか、お祭り騒ぎ。

家の中でおとなしくしている時間は、ゲームとテレビの時間くらい。
小競り合いは多々勃発。小競り合いから本気モードになって、
三人がぐっちゃぐちゃになって、殴り合いの泣きべそかきなんてしょっちゅう、
母の怒鳴り声も日常茶飯事。

家の中で遊ぼうものなら、床はガンガン、壁はドンドン、
二階で子供たちが遊んでいると、新築にも関わらず家が壊れそうなくらいの
騒音と衝撃で、これがアパート住まいだったらと母はゾッとする。

床はおもちゃを落とした跡で傷だらけ、壁紙は鉛筆やペンで色付き、
階段は手あかで壁が黒ずみ、障子は穴がいくつも空いた。
子供たちがドアを乱暴にバタン!と閉めるたびに、
「父ちゃんの家なんだから、大事にしてくれよ!」
と父ちゃんは怒る。
男の子なんだから、傷つくのはしょうがないじゃん、と母は心の中でつぶやく。

子供たちがちょっとずつ大きくなるにつれて、家もちょっとずつ傷んでいく。
家は傷ついて行くかもしれないけど、
子供たちが伸び伸びと過ごせるのって、なんて素敵なんだろうと思う。
うるさくっても、傷ついても、私たち家族の家だから。

家を建てると決心してくれたお父ちゃん、ありがとう。
安心して住んで行けるよ、ありがとう。

かじられた階段

すみ さんの投稿作品:

私たちが家を建てたのは結婚3年目。
ちょっと頑張ってローンを組んで作った我が家は大きくはないけれど、
二人の自信作でした。
そして、家を新築して半年後、我が家にアポロがやってきました。
前から家を建てたらゴールデンレトリバーを迎えようと夫婦で夢見ていたのです。

憧れの一戸建てと、憧れの大型犬との素敵な暮らし…と思っていたのですが、
そんな甘いものではありませんでした。
子犬を育てるのはとっても大変!
私たちは当時共働きだったので、仕事から帰ると子犬の世話でおおわらわの日々でした。
ある日、主人が家に帰るとサークルで留守番してたはずのアポロが脱走!
リビング中に粗相してあり、家具や階段もかじられていました。
新築のまだまだピカピカな家なのに!がっかり。
こだわって作ったストリップ階段の一段目の角がガリガリかじられています…。

そんなアポロもいつの間にか落ち着いて、いたずらは全くしなくなりました。
アポロのお気に入りの場所は自分がかつてかじった階段の一段目。
ここに顎を乗せるのがなぜだか落ち着くらしく、
「踏んじゃうよ~。」と注意してもいつもそこにいました。
アポロは私たちにとって、子供のような大切な存在となりました。
いつも、どこにいくのも一緒。
夫の名古屋への転勤で、私は仕事を辞めて
もちろんアポロも名古屋に一緒に引っ越しました。
3年名古屋で暮らした後、また我が家に戻ってきました。
やっぱり我が家が一番だね、と二人で言い合ったものです。
そして10歳になったアポロは、悪性腫瘍を患い、半年の闘病ののち、
大好きな我が家のリビングで、夫に抱かれて永遠の眠りにつきました。
抗がん剤の治療中もいつもニコニコ笑顔で天使のような子でした。
最後が病院ではなく、我が家だったのはアポロにとっても私たちにとっても幸せな事でした。

今、アポロの後を継ぐチェルシーがいます。
アポロを失った悲しみから私たちを救ってくれたのはチェルシーでした。
そして…驚くことに、アポロと同じ場所でチェルシーは寛ぐのです。
アポロとチェルシーは残念ながら一緒に暮らした時間はなかったので、
アポロに教えてもらうことはできなかったはず。
なのに全く同じ階段の1段目に顎を乗せているのです。
もしかしたら、お空のアポロがこっそり「階段の1段目がね、落ち着くんだよ。」と
教えてくれたのかもしれません。

あの時アポロがかじった階段は、角がなくなったまま。
かじられたときはショックでしたが、今ではそのかじり跡もいとおしく、
階段をなでながら「アポロはいたずらっ子だったねぇ」と涙ぐんでしまいます。
アポロとの思い出がたくさん詰まったこの家で、
チェルシーとの思い出を今はいっぱい増やしています。

ずっと、ずっと一緒に。

祖父と父が守る家

宇佐美うみ さんの投稿作品:

ところどころ壁紙も貼られず、畳も入らず、
2階のトイレのドアすらない未完成のマイホーム。
それが、私たち家族4人が引越した新しい我が家だった。
父と祖父が内装を手がけた、苦労と愛情と手作り感いっぱいの家。
2002年3月の、風の強く吹く、春分の日のことである。

きっかけは、町役場に空き家を勧められたこと。
これがなかなかの古さで、新潟市からかけつけてくれた元大工の母方の祖父も、
「基礎が腐っているかもしれない」と、新築を勧めた。
せっかくだし、新しく家を建てよう、と。
しかし、うちには新築できるくらいのお金がない―、迷った挙句、
自分たちでできることは自分たちでやろう、と決断。

基礎工事や家の構造部分などは地元の大工さんに頼むとして、
残りは父と祖父で作ることになったのである。
父と祖父だけでの作業が始まったのは、10月半ばのことだった。
祖父と祖母はその期間だけ我が家で一緒に住んだ。
自営業だった父は、仕事を休みながら、その空いた時間をすべて家作りにつぎ込んだ。
祖父は元大工ではあるけれども、父は全くの初心者。
確かに父は手先が器用で、私たち兄妹に木のおもちゃを作ってくれたこともあるが、
それとこれとはまた次元が違う。
父は祖父に壁や床や階段の作り方を一から教えてもらった。

祖父は、頑丈な家作りというものをモットーにしていた。
普通は釘を3本しか打たないところを5本打つというように、
細かな部分から常にその信念を貫いていた。
また、祖父は教え方の上手な人で、ただやり方を教えるだけでなく、
なぜこのような作り方をするのかという理屈を
説明してくれるため、覚えやすく、忘れにくい。
父も、飲み込みが早く、理屈を説明されるとすぐに覚えた。
そのため、2人はお互いのことをとても信頼していた。

しかし、上手くいっていた家作りも、突然危機的状況を迎える。
母と祖父が喧嘩したのだ。原因はたぶんいろいろある。
いくら娘の家族とはいえ他人の家で何週間も暮らすことで、
少なからずストレスが溜まっていたのだろう。
ある日母が祖父の手伝いをしようと思い、現場であれこれ手を出したが
中途半端にしかやらなかったものだから、それに対して祖父がイライラ。
母なりの気遣いが、祖父には邪魔にしか思えなかったようだ。
母も母で、久しぶりに長い期間父親と住み、気遣いを素直に出せなかったのだろうか、
「お父さん、たまには新潟市に帰っていいのに。」と一言。
これが祖父には頭にきたようで、「なんだと。」と声を荒げた。
その後は、売り言葉に買い言葉。
二言三言口論した後、祖父は祖母を連れてなんと本当に帰ってしまった。

これに困ったのが、誰であろう、教えてもらう立場にあった父である。
なにせ、教えてくれる人が姿を消してしまったのだ。
こんな状況で、素人だけで果たして完成などできるのだろうか―、
ほとほと困った父は、数日間悩みに悩み続けた。
そして、ついに腹を決めた。もう、こうなった以上悩み続けてもしょうがない。やるしかない。
一人であっても必ず家を完成させる、と…。
幸い、道具は全てそろっていたし、階段や壁の作り方も既に習っていた。
あとは、監督者がいなくなった現場で、教えられたことを思い出しながら、
ひたすらこつこつと作業を進めるだけだ。
父は、夕飯にも帰らず夜遅くまで働く日々を過ごした。

そして、春が来た。家が、完成した。いや、完成はしていない、正確に言えば。
先述した通り、まだ壁紙は貼ってないし、トイレのドアもついてない。
それでも、いいのだ。
なにせ時期がちょうどいい。それにこの家は祖父と父が仕上げたのだ。
それって本当にすごい。これは正真正銘りっぱな新築だ。
私は、引越しの準備の最中、そんなわくわくする気持ちでいっぱいだった。

引っ越した年の次の正月、私たち4人家族は例年通り新潟市の祖父の家に向かう。
祖父に会った母は笑顔で、冗談めかして祖父に挨拶した。
祖父も、照れくさそうに笑顔で返した。
それを見て私は、大人の喧嘩はこういう風にあっけなく終わるものなのか、と
子ども心に不思議に思ったものである。

私は、新しい家で2回の大きな地震を経験した。
新潟県中越地震と、長野県北部地震だ。
特に、長野県北部地震は、本当に、屋根が落ちてくるのではないかと
本気で思ったほど揺れが大きかった。
しかし、家はびくともせず、その頑丈なつくりは決して崩れなかった。
天井も床も、手作りなのに絶対抜け落ちたりなんかしなかった。
父と祖父が仕上げたこの家は、何回も私たち家族を守ってきた。

その地震から数年が経った。今年の正月の親戚の集まりに、祖父の姿はない。
祖父がいなければ私の家は建たなかった、と心から思う。
地震にも強い、がっしりとした温かい家。大学生になった今でも、
私は頻繁に実家に帰り、その居心地のよさに大きな安心感を抱く。

何があってもこの家は守られる、と信じながら。

今なら言える「ありがとう」

akkoberry さんの投稿作品:

この5年間のうちに、私も弟も結婚して家を出て、
私が生まれ育った家には、両親と年老いた祖母だけになった。
フルタイムで働く両親に代わり、留守番が仕事になった祖母。
実家のインターホンを3回押すと、耳が遠く足腰の弱い祖母がいつも出てくる。

思い返せば、祖母と私は何度となく喧嘩をしてきた。

お転婆だった幼少期は、何をするにも
「そんなことしたら怪我するからいかん」と言われてばかり。
学生の頃は、遅くまでテスト勉強をしていると、膝が痛いと言いながら
階段を上がってきて、「風邪をひくから早く寝ないかん」と一喝。
朝から晩まで「したらいかん」と「しないといかん」のオンパレード。
朝ごはんのパンも、食べないと言っているのに無理やり鞄にねじ込んでくる。

嫁ぐ時に渡された段ボール箱にも、祖母が使っていた裁縫道具と
コツコツ集めていたボタンや糸、厚紙で作った定規、救急箱、
その他にも事前にいらないと断ったたくさんの物が入っていた。

いつもそう。とにかくこちらの都合はお構いなし。
いつまでも自分がやりたいように世話を焼き、
何でも先回りして口うるさく指示をする祖母。
私のためだと分かってはいても、本当はほっといて欲しかった。

傷つけると分かっていたのに、「ありがとう」がずっと言えなかった。

しかし、自分もひとりの親になった今、祖母の気持ちが痛いほど分かる。
以前、祖母の部屋のタンスを見せてもらった時、私や弟が小さい頃に贈った
手紙や絵、肩たたき券、初めて縫ったティッシュケース、修学旅行のお土産など、
本人たちが贈ったことすら覚えていないような物まで、
今もクッキーの缶に大切にしまわれていて驚いたことがある。

私たち孫をたまらなく大切に思ってくれているからこそ、心配で仕方がない。
病気や怪我をしないように、失敗をしないように、悲しい思いをさせないように、
先回りしていろんなことを教えたくなる。自分にできることは何でもしてあげたくなる。
それでも子供自身の選択を見守り、その経験を糧にできるようにするのも
親の深い愛情だと思うが、親ではなく「おばあちゃん」だからこそできた、
ただただ純粋な愛情のカタチだったのだと思う。

おばあちゃん、今までごめんね。

今ではひぃばあちゃんになり、実家で子供たちと遊んでくれる祖母を見ていても、
温かい窓辺のベッドで一緒に昼寝をしたり、窓から庭にパンを撒き、
スズメが食べにくるのを待ったり。時には祖母がハイハイをして追いかけっこしたり。
流行りのおもちゃなどなくても、身近なもので思いもよらない遊び方をして、
子供たちが飽きるまで一緒になって大笑いして、とても自然体で楽しんでいる。
小さい頃の自分や弟もこうして愛情をたくさん注いで遊んでもらっていたのだと思うと、
素直にありがとうの気持ちでいっぱいになる。

おばあちゃん、今まで本当にありがとう。
祖母のことが、祖母が待ってくれている家が、私も子供たちもやっぱり大好きだ。

もう耳が遠いのに、4歳の息子が一生懸命練習したピアノを弾く時や、
1歳半の娘が覚えたばかりの歌を歌う時は両手を添えて耳を澄まし、
大きな大きな拍手をしてくれる祖母。
足腰が弱いのに、インターホンが鳴ると杖をついて玄関まで来て、
私たちを『いらっしゃーい』と満面の笑みで出迎え、
『またおいでな』と車が見えなくなるまで見送ってくれる祖母。

世話焼きで口うるさいのは今でも変わらないが、きっと今なら言える。
私から祖母への、心からの『ありがとう』。
祖母にはちゃんと耳を澄まして聴いていて欲しい。
この気持ちが、祖母の耳に、心に、じんわり届きますように。

長い年月をかけ、今こうゆう気持ちになれたのも、『家』という場所があったからこそ。
家族ひとりひとりがありのままで向き合い、それぞれの人生の節目に、
楽しいだけでなくつらい時間や経験も共有しながら、家も家族もカタチを変え、
絆を深めてきたからだと心から思う。

1級建築士の父が設計したオシャレな家も、今では至る所に祖母用の手すりがつき、
バリアフリー住宅まっしぐら。私が家を出たら処分するはずだったピアノも、
息子のためにと残留が決まり、相変わらずリビングを占拠している。
そして、かつて父が家具まで手作りしてくれた子供部屋は、
今では両親の趣味の部屋になり、今度は孫たち用の
小さな手作り家具がいつも出番を待っている。

こうして家族のカタチに合わせ、家のカタチも変化していくのだと思う。

最後に、私の生まれ育った家、今まで本当にありがとう。

これからも、大好きな祖母が自分の足で孫や曾孫たちを出迎え、
一緒に楽しく過ごせるよう、どうかずっとずっと支えてあげてください。

父へ

nananamama さんの投稿作品:

築70年以上は経つ我が家。
祖母たちと住んだり、家族が6人や7人になったり賑やかな時期は過ぎ、今は父と母が2人で住んでます。

そんな日々が続くと思っていたら、
先日母から、父が癌になった知らせを聞きました。
今すぐということでは無いが、この先体調が悪くなる可能性
が出てきました。

私の子供も大好きな父。
この先、暮らしやすいように
今のお家を少し改造できたらと思ってます。

だから、母のためにも長生きしてね。
そしていつものように、お家で待っててね。

家族皆でニコニコ

いえみ さんの投稿作品:

前はアパートだったので、走ったりジャンプしたりすると、叱っていました。
家を建ててからというもの、下の方に気遣うこともなくなり、
多少のやんちゃは笑顔でスルーすることができるようになったと思います。
随分と叱る回数も減りましたし、心の余裕もうまれました。
いつも本当に気になってピリピリしていたので、
子どもたちも毎日のびのびと過ごしています。
また、無垢の床にしたため、過ごしやすいようで、帰れば必ず裸足になっています。
子どもでも何となく良さがわかるんだとうなぁと思います。
2人で今日もどたばたと走り回っています。
建てるまで、夫婦でものすごく悩みましたが、
今では良かったねと思いは一致しています。
ただ、落書きはひどいです。ドアや床、壁紙と、自由にやっちゃっています。
いつも言っているのですが、伝わっていないようです。
いつかは、リフォームだねと夫と話しています。

しょっぱいうどんが教えてくれたこと

ひろかなママ さんの投稿作品:

結婚したら 一生転勤が付いて回るけど それでもいい?

プロポーズの後にさらっと言われたその言葉。
ついこの間まですっかり忘れていた。

今や結婚7年目の我が家。
5歳と3歳やんちゃ盛り食べ盛りいたずら盛りの男の子が2人。
長男がやっと一人で歩くようになった頃に次男を授かったので
一息つく間もなく駆け抜けたようなこの7年だった。
この4月から次男もやっと幼稚園。
ようやく自分の時間も少しは持てるのかなと、この時を指折り待っていた私。
待ちわびた入園までいよいよあと少し・・・

そんな時、にわかに転勤の話が出てきた。
それも今度の候補地は海外。
海外赴任に関しては夫自ら希望しての事だけに、応援したいし力になりたい。
いつか挑戦したいと打ち明けられたら
その時は全力で背中を押そうと決めていたのに・・・
実際 海外での生活なんて不安を通り越して恐怖でしかない私。
実際問題海外なんて新婚旅行で一度行ったきり。
英語も学生の頃試験前の一夜漬けで何とか乗り切ってきたレベル。
それに何より小さな子供たちもいる。
協力どころか 重荷になってしまうのではないか。

転勤の話はまだ本決まりではないとはいえ、遅かれ早かれ回ってくる運命なのだ。
誰にも言えない弱音のような悩みを抱えていた時
私はインフルエンザにかかり 3日間寝込んだ。

狭い家の中に隔離室として締め切られた和室。
そこに一人布団を敷いて寝込んでいたのだが、
襖一枚で隔離しても声や物音は丸聞こえだった。

夫が何かを探してキッチンに戸棚をかたっぱしから開け閉めする音
幼稚園での一日の出来事を一生懸命説明する長男の声
飲み物をこぼしたとさわぐ次男の泣き声。

高熱にうなされながら どうにか眠ろうと努めても 気になって一睡もできない。
しばらくして 隔離された和室の襖の隙間から 紙が出てきた。
長男がお見舞いの手紙を書いてくれたのだった。

それは大きなカレンダーの裏に書かれた家族が笑う絵。
綺麗な赤い太陽と 大きな家の隣で みんな楽しそうに笑っていた。

少し前まで ぐちゃぐちゃに書きなぐることしかできなかった息子は
いつの間にこんなに上手に書ける様になったんだろう。
私は息子の優しさと成長がとても嬉しく感じた反面、
忙しさにかまけて息子の成長を見逃していたのでは、と反省の気持ちも生まれた。
襖の向こうの騒がしい日常を聞きながら、私は転勤後の生活の不安や子供への反省や
体の節々の痛み、浮かんでは消えていく様々な思いと闘いながら天井を眺めていた。

その夜夫が作ってくれたうどんは加熱不足で野菜がとにかく固くしょっぱかった。
子供たちも苦笑いだったに違いない。でも不思議と体がほっとした。

そのうどんを食べた時、何故か私にはこの家族の将来が少し見えた気がした。

住む場所がどこであれ、家族がいて 温かい食卓があること。
それが我が家なのだ。

この2人の息子たちは きっとどこへ行っても今と同じように
おもちゃを取り合っては喧嘩し、走り回っては親に怒られ、お腹がすけばご飯を食べ
眠たくなったら眠る。

何も不安に思うことはない。
しょっぱくともうどんはうどん。
しっかりと私の栄養となり体を回復させてくれたように、
私はどこへ行っても肝っ玉母さんとして美味しい食卓のある家を守るのだ。

父親の働く後ろ姿は太く大きな大黒柱となり、
息子たちの心にしっかりと刻まれていくと信じている。
そこに思い出や経験を詰め込んだ自分たちの部屋を作っていけばいい。
本当の家はきっと、心の中にできるのだ。

今でも不思議なのだが、しょっぱいうどんがそんなことを私に教えてくれた気がした。
ありがとう。

家族が集う家に この先も一つでも多くの笑顔が咲きますように。
子供たちにとって 玄関を開けるのが楽しくなるような家でありますように。

ずっとずっと忘れないよ

yunko さんの投稿作品:

2014年1月15日、あんなに大好きだった、あんなに思い出のつまった、
私の育った家の解体が始まった。

14年前、母が亡くなってから、父はあの家で一人暮らしをしていた。
しかし、その父もやがて認知症を患い、家は空家になってしまった、
以来、主のいなくなった家を、私は借家にしてこれまで守ってきた。
私を支えてきたのは、母が亡くなる前に言っていた
「この家だけは手放さないで欲しい」という一言だった。

しかし、借家となった家はどうしても荒れていく。
母が何十年もかけて耕し、フカフカの温かい土を作り上げた庭の菜園は、
いつの間にか踏み固められ、そこにかつて
畑があったとは想像もできない庭になっていった。
父がいつも刈っていた芝も全て雑草に生え変わり、
剥き出しの土や石ころが痛々しかった。

でも、どんなに荒れ果てても、そこへ行けば私はあの家に会えたのだ。
私を何十年と包んでくれたあの家に。

ところが昨年末、借家人の方の急な退去に伴い、実家は再び空家になってしまった。
古い家の維持管理には莫大な費用がかかる。
「もうこれ以上は無理だ。」
私は、しかたなく家の解体を決断した。本当に苦渋の決断だった。
心の中で母に謝り続けた。

「お母さん、ごめんね、ごめんね。お母さんの家、守ってあげられなかった・・・」

解体の日の前日、私は近所の花屋さんで小さな花束を作ってもらった。
店員さんに「何に使われるのですか?」と聞かれ、一瞬とまどった。
とっさに「お礼です。」と答えた。
明るい色の花ばかりで小ぶりのかわいい花束にしてもらい、
「おつかれさまでした」のカードを添えた。
その足で実家に向かった。

誰もいなくなった家の中は、荒れ果ててはいるものの昔と何も変わらなかった。
ただ、どんなに待っても父も母も、あの頃の小さな自分も
二度とここに帰って来ることはない。
今にもそこかしこから家族の笑い声が聞こえてきそうなのに、
それが聞ける日はもう絶対に帰ってこないのだ。
その時、この家をいつまでもいつまでも残しておきたい気持ちと、
この空っぽの家をもうこれ以上見たくない気持ちとが私の中で入り混じっていた。

私は家の中の写真を撮りまくった。ただただ撮りまくった。
自分がこの家で見てきた風景全てを残しておきたかったからだ。
ドアを開けるといつも母が老眼鏡越しに振り返って迎えてくれた居間、
父が一人習字をしていた書斎、私と母とで使いやすい様に工夫した台所、
子どもの頃友達と雛祭りをした和室・・・。
いくら撮ってもきりがなかった。

そして最後に玄関の上がり框に花束を置いた。
花束のカードには「今日までずっとありがとう。忘れないよ。」と書き添えた。
玄関の鍵をかけた時、「これで本当に最後なんだ」と思うとなかなか立ち去れなかった。

解体には2週間以上かかった。その間、私は一度も現場を見に行くことができなかった。
恐ろしくて、家が可哀想で見ることができなかったのだ。
夫に代わりに行ってもらい、工事の様子を写真に撮ってきてもらった。
メチャメチャになった家の中を見て悲しくなった。
「もうあの家は無いんだ」という思いが込み上げてきた。
あの家にあったものはみんなどこへ持って行かれたのだろう。
みんなそれぞれ違う場所へ連れ去られ、
じっと処分される時を待っているのかと思うと居たたまれなかった。

2週間経って初めて自分で現場を見に行くと、そこは見事に何もなくなっていた。
あれほど広いと思っていた土地が、なんだかすごくちっぽけに感じられた。

家って何だろう?
どんな時も、私にはあの家がいつもニコニコと微笑みながら
全てを許してくれていた気がする。
これほど長い間、私達を守り、包み続けてくれたのに、その挙句に解体されていく。
その時もじっと何も言わずに耐え忍び、私を見守り、許し続けてくれていた気がする。
本当に温かく大きい存在だった。
私はあの家で自分が育ったことをいま誇りに思う。
私は生きている限りあの家を忘れない。
それがあの家への一番の恩返しになると思うから。

呼吸する家

つぐみ さんの投稿作品:

「ガラガラッー」と音をたてる。
それが我が家の玄関。
今となっては珍しい引き戸。
ついつい
「ただいまぁっー!」
と声をあげたくなる。

我が家は戦後すぐに建てられた木造の日本家屋。
家族構成や時代の変化と共に、改修や改築を重ね、
今や残っているのはその玄関のみとなった。
けれど、私の思い出と共にこの家の古い思い出は残っている。

玄関をあけて右の部屋はコタツと黒電話のある祖父母の部屋だった、
途中で改修し私の部屋となり、今は収納部屋になっている。
玄関左の部屋は家族が団らん出来る居間だった。
真ん中の長い廊下を進むと畳部屋がふたつ、
夜は布団を敷き、みんなで仲良く川の字で寝た。
一番奥には離れがあり、お正月は親戚が集まり賑やかだった。
縁側にできる陽だまりの中、祖母がいつも気持ち良さそうに居眠りをしていた。
そして、縁側からは庭の移ろいゆく季節がいつでも眺められた。

家業が材木屋であったこともあり、物のない時代、
出来る範囲の中で材料にこだわって作られた家。
天井、床、柱、今となっては贅沢だが、お風呂も祖父のこだわりの檜風呂だった。
そのような訳でいたるところに木が使われていた。

風が吹いたからなのか、時々、
「ミシミシッ。カタカタッ。」
と音をたてる家。
小さな私にとっては、その音や柱や床、天井の節目や木目が人間の顔や姿に見えて、とても怖かった。
家のどこかに誰か別の人が住んでいるのではないかと、幼心に本気でいろいろな妄想をした。

そのような私の様子を見かねてか、ある時、祖父が言った。
「家だって生きているんだよ。人間と同じように呼吸をしている。
そして、私達家族のことを守ってくれているのだよ。」
小さな私にとっては思いがけない言葉だった。
「家が生きている・・。あの音は家が呼吸しているからだったのか・・。
そして私達を雨や風から守ってくれている。」

その日以降、さまざまな音も、木の節目や木目も怖がらなくなった。
不思議なもので今まで以上に家の存在を身近に感じるようになり、何より守ってくれているということが嬉しく、安心感があった。

あのように教えてくれた祖父は今やもう天国。
一昨年の夏、私は出産をひかえ実家に戻った。そして病院での出産を終えた私と産まれたばかりの小さな赤ちゃんを
「ガラガラッー」
という懐かしい音が迎え入れてくれた。
そう、私もずいぶん昔に母の胸に抱かれてこの家にやって来たのだ。

それから、
初めてランドセルをしょい小学校へ登校した日、
友達とケンカして泣いて帰ってきた日、
夏、思いがけず夕立ちにあい、ずぶ濡れになった日、
雪の降る寒い日、受験会場に向かった日、
社会人となって初出勤をした日、
夫が初めて我が家にあいさつに来た日、
そして、結婚し、この家を出た日。

どの日もいつも変わらない音で私を暖かく迎え入れ、見送ってくれた。
私の家族の歴史をこの家はすべて知っている。
そして今や我が家は実家と呼び名を変え、
その存在がとても愛おしいと思える。

新しい年を迎え、息子は1歳半となった。
実家に遊びに行くと、ヨチヨチ歩き、自分で玄関を降りては戸の開け閉めをする。
「ガタガタッー」
っと。
新たな思い出をこの家が刻み始めた。

子供たちの笑顔

SS さんの投稿作品:

私は、家内と娘二人の4人家族です。
家は、35歳のときに25年のローンを組んで思い切って購入しました。
私にとって、家は退職金をもらって資金に余裕が出てから購入するものと
思っていましたので、最初、家にはほとんど関心がありませんでした。
しかし、家内は
「家は子供たちの成長にとってなくてはならないもの、できるだけ早く購入して
人生の大部分をそこで過ごすべきだわ」と言って考えを譲りませんでした。
私自身は、25年のローンを無事に払いきれるかとても不安でしたが、
家内の言うとおりだと思い、しばらく考えた末に家を購入することにしました。

内覧会で、2歳の娘と三人ではじめて新築の家に入ったときのことでした。
私と家内が担当者からいろいろと説明を受けている間、
娘は広いリビングがすっかり気に入ったようで歓声をあげて走り回ってはしゃいでいました。
アパートの狭い部屋に比べて、きれいで広々とした
家に住めるのがとてもうれしかったのでしょう。
そのときの娘の姿が今でも思い出され、
「あのとき、思い切って購入を決断してよかった」と思っています。

新居に移ってから一年目に次女が産まれました。
次女が2歳になって歩けるようになってからは、娘二人はいい遊び相手でした。
いつも一緒に、リビングでおもちゃを広げて遊んだり、
庭にプールをつくって水遊びをしたり、縁側でおままごとをしたり、
となりの公園の遊具で遊んだり、いつも家のどこかで笑顔と歓声が絶えませんでした。
まさに、家を中心に家族の人生のゴールデンタイムが動いている感がありました。
写真は、あの頃の子供たちの様子です。ご覧ください、この笑顔。
子供たちの笑顔は、見ているだけで、
私たち二人にとって何物にも代えることができない人生の宝物でした。
こうした子供たちの笑顔に支えられて、
長かったローンを何とか定年前に完済することができました。

あの頃から瞬く間に二十数年の年月が経ち、私の家族の様相は一変しました。
長女は社会人になり、一人暮らしを決めて家を出ていきました。
また、昨春には、次女も社会人となり、勤務地が遠隔地のため家を出ることになりました。
かくして、気が付いたら家内と二人だけの生活になっていました。
俗にいう円熟生活を楽しむ時代に入ったのでしょうが、やはり何か寂しさを隠し切れません。
しかし、そんなときに、ふと子供たちがよく遊んでいたところに目を向けて瞼を閉じますと、
不思議なことに、笑顔に満ちて夢中で遊んでいる子供たちの姿が脳裏に浮かびあがってきます。
そして、家族のたくさんの思い出が残っているこの家で、
これからは、二人の残された人生にどんな花を咲かせようかと模索する今日この頃であります。

介護と育児が共生する家

kuroko さんの投稿作品:

「じぃじ、ただいま~」

4歳と2歳の息子たちは、保育所から帰ると一番に向かうのは義父の部屋である。
義父は左半身麻痺の寝たきりで常に介護を必要としている。
我が家は、介護と育児が共生している家である。

妻の父が最初に倒れたのは、1998年で当時は59歳だった。
軽度の左半身麻痺が残るも日常生活に支障はなかった。
2006年、透析受診の道中に足が動かなくなり緊急搬送。小脳出血発症で入院した。
2週間後に病院内でも倒れ、生死をさ迷ったが奇跡的に意識が戻った。
義父の住む家は5階だったがエレベーターがなかったため、
退院後の自宅暮らしは困難であった。
病院からも「この状態で在宅生活は無理だと思います。
施設をお勧めします」という意見であった。
透析で寝たきりに近い状態になった患者の受け入れ先を探すのは困難であったが、
倒れてから1年後の2007年4月、妻の父を我が家に招いて在宅介護をスタートさせた。

2009年、待望の赤ちゃんを授かり、介護と育児の両立が始まった。
我が家は更に賑やかになった。
周りからは心配の声も挙がったが、実際に生活してみると
介護と育児が交わることでプラス面もたくさん出てきた。

息子はいつも義父の部屋に行き、1歳になる前に車いすを押し出した。
小さな介護士の誕生であった。義父は孫の動きに合わせてリハビリを毎日行う。
眠そうにしている息子を抱っこして歌っていると、車いすに座っていた義父がウトウト寝そうになる。
二人とも瞳がトロンとしている姿は我が家らしくて笑える。
義父と息子のオムツ交換が重なることも多々あり、
家の中が何とも言えない匂いの日もある。

息子が3歳になると義父の言葉もしっかりと理解ができるようになり、
介護と育児が今まで以上に深くなった。透析から帰ってくるのを楽しみに待っている息子。
「じぃじが帰ってきたらアイス半分あげる」
と言いながら、食べていたアイスの半分を冷凍庫に入れる。
朝の挨拶では、
「おはよう!!じぃじ、御飯食べてくるわ。じぃじも食べてね」
とベッド際で話している。車いす操作も完全に覚えて
小さな介護士は我が家にとって頼もしい存在になった。

2011年に次男が生まれ、小さな介護士は、
「じぃじの車いすなぁ、危ないからなぁ、触ったらあかんでぇ」
と弟に先輩面をしている。兄から弟に引き継がれていく我が家の介護。
小さな家だけど、介護と育児は大きく共生している。
義父の小さな声も拾い上げベッドに近寄る息子たち。
私たち夫婦は、その姿に心の介護負担が軽減されてきた。
これからも介護と育児に魅了されながらの生活が長く続いてほしいと思う。

2014年の春、3人目の子どもが誕生予定。
同時進行する我が家の介護と育児に更なる磨きをかけ、
ドラマの一場面のように素敵な時間をこの家で作っていきたい。

父とBlues

パンコ さんの投稿作品:

年賀状の家族写真を撮る直前。
兄がアメリカから連れてきたぬいぐるみのBluesと父との一枚。
父の子供の頃を垣間見た気がしました。

「私たちの部屋」

せんとちゃん さんの投稿作品:

私が5歳の時、おじいちゃんが家を建てた。
孫7人が遊びに来た時のために、2階に子ども部屋を作ってくれた。
私が「私たちの部屋、あるんやー!うれしい!」と言ったことから、
その部屋は「私たちの部屋」と命名された。
孫たちはこの部屋で夜はみんな一緒に寝て、おじいちゃんの
レーザーカラオケを勝手に触って「俺ら東京さ行ぐだ」を一緒に歌った。

おじいちゃんは7人の孫が大好きだった。
けっこうな年齢だったはずだけど、いつも
孫たちをお腹や背中に乗せて遊んでくれていた。

クリスマスには毎年いとこ同士で集まっていた。
おじいちゃんサンタが毎年、英語っぽいかんじのコトバをしゃべりながら
プレゼントを渡してくれた(笑)
なんとなくわかっていたけど、
「サンタさんを信じてない子にはプレゼントはこない」と言われ、半信半疑だった。
ある年のクリスマス、いつものサンタがプレゼントをくれた時、ポトっと何かが落ちた。
白いふわふわした眉毛だった。
びっくりしてサンタの眉毛を見ると、白髪混じりの黒い眉毛があった。
慌てた叔母がセロハンテープでふわふわ眉毛をサンタさんに貼っていた。(笑)
次の年からふわふわ眉毛はなくなっていた。

孫がどんどん大きくなって、いつの間にかクリスマスも集まらなくなり、
おじいちゃんと遊ぶ子もいなくなった。
それでも親戚みんなが集まるといつも、
ちょっと酔っぱらったおじいちゃんがつぶやく。
「あぁー幸せやなぁー。僕は幸せや。」
5分に1回くらい、7回ほど繰り返し「幸せや」をつぶやき、
ごろんと横になって寝てしまうのがいつものコース。
(そしておばあちゃんに怒られる…笑)

ある夏、おばあちゃんが肺炎で急に亡くなってしまった。
おばあちゃんと一心同体だったおじいちゃん、
どんどん体も心も弱ってしまい、その2ヶ月後には後を追うように亡くなった。

主を失った家。
みんなすごく迷ったけど、おじいちゃんの遺言もあり、売ることになった。
みんなの思い出がいっぱい詰まったこの家に、
ありがとうの気持ちを込めて、久しぶりにクリスマス会をした。
「こんなに狭かったっけ?」と言いながら、孫7人で寝る「私たちの部屋」。

今でもあの家は、他の家族の思い出を作っている。
「私たちの部屋」はなくなったけど、
孫7人をはじめ、今でも親戚みんなで集まっている。
「おじいちゃんの幸せや~が聞こえてきたね。」と言いながら。

全員集合

ふ~たく さんの投稿作品:

何十年も我慢して生活してきた家を建て替えました。
やっとの思いで新築した我が家の前で、最初で最後の親族集合写真です。

家族の盛衰を見守り続ける家

きままかーさん さんの投稿作品:

北海道札幌市東区、かつて札幌オリンピックが開催されたというスケートリンクから
ほど近いところに私の家はある。間取りは5LDKの広めの一軒家。
ここに住むようになってかれこれ7年がたとうとしている。
当時2歳だった長男は、今や高学年に間違われるほどの体格のいい小学二年生。
家ではしっかりもののお兄ちゃんだが、
学校ではクラスの中心的なお笑い系の人気キャラらしい。
当時私のお腹の中にいた次男は、負けず嫌いのわんぱく年中児。
お母さんラブなこの兄弟、寝る前には私の隣を奪い合ってよくケンカしている。
というのは、うちにはもう一人子どもがいるのだ。
生後7ヶ月の長女。ダウン症である。
去年我が家にやってきた穏やかな笑顔で家族を和ませてくれる末っ子。
夜中に、この小さな妹が私のおっぱいを飲むので、
私の右隣はすでに彼女に占領されているのだ。
だから、いつも左に誰が寝るかで上の二人が兄弟ゲンカになるのだ。
45歳の夫につけ入るスペースはない。可哀想な夫。
そして40歳目前のアラフォーママの私。これが私の家族だ。

人に歴史あり、家にもしかり。私たちがこの家に住むようになったいきさつはこうだ。
さかのぼること約八年前。この家に住んでいたのは年老いた夫の両親二人であった。
築20年の昭和の家。
義父が設計したという自慢の間取りは、義母に言わせると段差が多く、動線も悪すぎる。
たまに訪問すると、マイペースな義父の愚痴を義母からたんまり聞かされる嫁の私。
サバサバした明るい性格の義母だったので、私はたいして苦にはならなかった。

その義母が突如ガンという病に倒れた。まだ雪の多い季節だった。
発見された時には時すでに遅く、全身にガンが転移した末期の状態であった。
当時この家から車で40分ほどのところに住んでいた私たち一家三人は、
義母の在宅看護の希望を叶えてあげるべく、近所のアパートに引っ越してきた。
今思えば我ながら思い切ったことをしたものだ。

よちよち歩きの長男を連れて、実家通いが始まった。
そうこうしているうちにも義母の体はみるみる衰え、
夏には居間に置いた介護用ベッドから起き上がれなくなった。
夏休みに入り、義母の容態がいよいよという状態になった時、
東京から義兄一家がやってきた。
子どもたちは、いとことの久しぶりの再会を喜んだのもつかの間、
どんどん意識が薄らいでいく義母をみんなで見守る日々。
夏の終わりのある日、義母はとうとう家族みんなが見守る中静かに息を引き取った。
病院ではなく自宅のリビングで逝った義母。理想の死だったのではないかと思う。

その後、身の回りのことを一人でするのが大変な体の弱い義父と
私たち一家が一緒に住むことになったのは自然な流れだった。
ただ、生前義母も嘆いていた通り、義父が設計した家は、
幼い子どもと高齢者が同居するにはちょっと勝手が悪すぎる。
そこで大幅な改築をすることになった。ちょうどその頃、体調不良で義父が入院。
入院中に片付けと改築の打ち合わせが急ピッチで進められた。
この頃私のお腹には、新しい命が宿っていた。

義母が亡くなってから10ヶ月後の5月。
晴れて新築同様に改築された家で私たち一家と義父の同居が始まった。
この頃の私は、すでにお腹が目立ち始めていた。
一方義父は退院後、認知症とみられる症状を見せるようになっていた。
心身ともに不安定な妊婦と老人。
はたからみれば喜劇だが、当時の当人たちにしてみれば悲劇であった。
いろいろとすったもんだの末、ケアマネジャーの助言により、
私の臨月あたりで義父は施設へ入所。
一昨年その義父も帰らぬ人となった。義母逝去から丸5年がたっていた。

そして世代交代した今、私たち夫婦と三人の子どもたちを中心とした
新たな家族の歴史がこの家で繰り広げられている。
義母と仲の良かった近所の奥さんは、うちの子どもたちを孫のように可愛がってくれている。

リビングの隣の義父の部屋だったところは今、ママたちの居場所
「来mama(きまま)ルーム」と名付けられ、月に数回、ママのための集いの場となっている。
私の小さな夢も叶えてくれたこの家。
義父と義母に孫全員の顔を見せてあげられなかったのは残念だが、
3人の子どもたちの成長と、来mamaルームを訪れる母子の笑顔を
天国から見守ってくれていることを願っている。

父や母の介護や看護、そして看取りという夫にとって辛い時期、
私は彼に心から寄り添えていただろうか。
育児にかまけてあまり役に立てなかったのではないかと、
このエッセイを書きながら反省しつつ、
あらためてこの数年を振り返ることができたことに感謝したい。

和食が彩る「ありがとう、わたしの家」

影法師 さんの投稿作品:

1、和食が原点
正月。静岡の長男家、愛知の次男ファミリーが帰省し、
宮崎の長女一家と合わせて、心地よいひとときを過ごしました。

妻が腕を振るった郷土色豊かなおせち料理に、
この食事の為に集まった皆は大満足でした。
自家製のカラスミも並べましたが、またたく間になくなりました。
飲みながら食べながら、笑いも絶えませんでした。

我が家では、こどもたちの誕生日や入学祝いなど、
いろいろなハレの日は親兄弟も招いて、家庭和食料理で祝ってきました。

ほとんどの料理は、素材の味を生かして調理しています。
鯛や鰹なども一匹のまま買って、
お刺身から照り焼き、お吸い物やあら炊きまで作ります。
アジやイワシの骨せんべいは、孫まで喜んで食べています。

狭いながら、家庭菜園があります。
夏には、ナス・キュウリ・トマト・オクラなど、
新鮮で美味しい季節の味が食卓に並びます。
黄色い花オクラ・赤いミニトマト・緑のオクラの三色サラダもメニューの一つです。
グリーンカーテンにもなるゴーヤは、「涼しさ」と「食べる」を味あわせてくれます。
熟れたので作るゴーヤジュースは、自家栽培でないとできないスペシャルドリンクです。

椎茸の種駒を打ち込んだほだ木(椎茸の原木)を、庭の隅に置いています。
季節には、肉厚で歯ごたえのあるしいたけを収穫することが出来ます。
ドンコ(傘の肉が厚く、全体的に丸みを帯びている成長途中の椎茸)は、
フライパンでバター醤油焼きにすると美味しいです。
多い時は天日乾燥して、ビタミンD豊富な乾しいたけを作ります。

菜園で取れる物の、加工もします。
高菜や蕪の漬物、紫蘇の実漬け、大根を干して作るはりはり漬けなどです。
また、我が家特製のイカの塩辛や松前漬け等も、家族全員が大好物です。

近くに住む七歳の孫は、菜園の耕しから加勢します。
種まき・水やり・害虫取りも手伝い、トマトやキュウリの脇芽摘みもします。
ニンジンもブロッコリーも大好きで、“食”は人を健全に育ててくれます。

世界各地には、家族を失い、土地も奪われ、“食”に苦しんでいる人達が大勢います。
食は人格を創ります。
「誰もが食を安全にできる世界」を願い、食を大切にしていきたいと思います。

2 絆深まるファミリー旅
ファミリーで、よく旅をします。
皆が帰省した時は、本県のえびの高原や日南海岸などに行きます。
ファミリーで、阿蘇や指宿などにドライブしたこともあります。
ファミリー旅ではハプニングも飛び出し、笑いを誘います。
身内ならではの遠慮ない道中に、一日の短いこと。

静岡の長男宅に集まった時の箱根旅も、楽しいものでした。
箱根登山電車に乗ってスイッチバックを体験し、芦ノ湖遊覧船では変わりゆく景観を堪能し、
箱根ロープウェイでは空中を散歩しました。
また、富士山への旅は、富士山も素晴らしかったし、富士五湖めぐりも心に残っています。

愛知の次男宅に顔が揃った時は、金閣寺や銀閣寺など京都旅に出ました。
竜安寺の石庭では、十五個あるはずの石が、どこから見ても十四個しかありませんでした。
鈴虫寺では、一つだけ願いを叶えに来て下さる草鞋を履いたお地蔵さん(幸福地蔵菩薩)に、
それぞれが、「ありがとう わたしの家の願い」をしました。

昨年夏は、子供たちが帰省したので、本県延岡市の須美江海水浴場へ行きました。
孫たちも大喜びで、歓声がいつまでも海に広がっていました。
海産物満載の夕食の美味しかったこと。
ファミリーの夕食宴は、いつ果てるとも知れませんでした。

3 「ありがとう」わたしの家
「和食」が、無形文化遺産に登録されました。
大変嬉しいことで、ありがいです。和食は、素材が豊富で、調理法もたくさんあります。
また、栄養のバランスにもすぐれ、見た目もきれいで美味しいです。
四季に恵まれている日本に、「ありがとう」です。

家族の絆の原点は、家族で共にする食事にあると思います。
小さい時から母の和食で育った子供達は、家庭を持ってからも、
事あるごとに孫を連れて帰省します。
「ありがとう」と帰ってくる子供たちを、「おかえりなさい」と、
嬉しく迎えることができて、「ありがとう わたしの家」です。

ロフトの穴

木立慈雨 さんの投稿作品:

7年前に建てた家は、2つの子供部屋にロフトを作り、そのロフトの間に穴を開けた。
長男と次男が下りずに行き来できるようにである。
穴を通して兄弟が仲良くしてくれれば、と思ったのである。
ときどき喧嘩もしながら、ロフトの穴をくぐって遊ぶことも多く、
穴を作ってよかったと思った。
建てて4年後、東日本大震災の津波で1階が水没したが、
子供部屋とロフトは2階にあり無事だった。
長男と次男はいまや高校生と中学生、以前のように穴を行ったり来たりはしなくなった。
だが、いつか穴を作った親の気持ちが分かるとうれしい。

合わせて100点満点

シーサイド さんの投稿作品:

雨音でテレビの声が聞こえない。20年前に住んでいたのはそんな家でした。

慌ただしい転勤で、家探しに費やせたのは半日のみ。
時期もちょっと遅かったので、紹介していただいた物件は一つだけだったのです。
あれこれ迷うひまもなくそこに決めて引っ越しました。
その転勤は私の育児休暇明けと同時のもので、新しい土地、新しい職場、
初めての保育園に、私の胸は不安でいっぱいでした。

うすら寒い夕方、親子三人でご近所へのあいさつ回りにしたときのこと。
型どおりのあいさつをして回っての3軒目。
明るい笑顔で出てきた奥さんは大きな声でご家族を呼んでくださいました。
やさしそうなだんな様。おっとりとしたお嬢さん。
奥に介護の必要なお母様がおられるとのことでした。

皆さんの自己紹介を聞いているうちに、キュッと緊張していた心がほどけるようでした。
その後は、なにかにつけてお世話になるばかり。
一番ありがたかったのは夕方に1時間ほど娘を預かっていただいたこと。
ちょっと一休みして夕ご飯の準備をしたらとの配慮からでした。

他にもおかずをいただいたり、
風邪をひいて保育園に行けないときに預かっていただいたり。
その家自体はお世辞にも素敵なおうちとはいきませんでしたが、
やさしいご近所さんと合わせたら100点満点の家でした。
ありがたいご縁でした。

その後また転勤でその地は離れました。
それ以降、私たちが必ずしていることがあります。
それは、引っ越しのあいさつを受ける時には家族全員玄関で、自己紹介をするということ。
(写真はそのお宅のだんな様にでんぐり返しをしてもらっている娘です。)

「家」て、なんだろう・・・

喜多見庵 さんの投稿作品:

離婚して20年近く足を向けなかった町に、仕事帰りに何となく足を運んだ。
このゆるい坂道を登ると突き当たりに昔の家がある。(写真1)
ここに立ち寄ったのは、独立し結婚した35歳になる長男から
メールで「お母さんが家を売った!」が来たからで、
この情報なければ一生立ち寄らない場所だったかも?
推測だが、元妻と長女の二人では144m2の家の管理は大変で、
近くにマンションを購入したんだろう。

夕暮れの中、家の近くで「昔の我が家」を見上げた。
この通りは休日、子供たちや近所の子供たちと遊んだ思い出が、
敷地の庭にはウサギ小屋、鶏小屋、バスケットゴールなどを建てた
楽しい思いでがどんどんと甦ってくる。なんだか久しぶりに心がざわついた・・・

目の前には、外装が変わってるが
基本の形は自分の建てた当時を思わせる「家」がまだある。
建築のきっかけは、長男の誕生と共働きを希望する元妻の希望をかなえるため、
自宅マンションを売却、元妻の家を無料借地で二世帯住宅に建て直した。

新居を建てるための準備は、あわただしい中に充実感があった。
建築会社の営業担当、一級建築士と両親、夫婦4人で何度も打ち合わせをした。
「上り框」にいろんな木材があることや「修繕に便利なため配管を外壁に!」と、
主張する私に家の格調にこだわる設計師の意見に納得など、
家を建てるにあたっていろんな知識が入ってきた。

新居の基本設計は、一階は両親のため充分でなくてもそれなりの内装に。
二階は子育てを考えて、アパート程度の内装で決まった!
近所のアパートに住んで、地鎮祭、棟上げ式など参加してるうちに、
家はただの「箱」でそこの住人が主では?と軽く考えていた30代の私が
だんだんと社会人・大人?になっていくのを戸惑っている実感もあった。

新築の二世帯住宅で、子供3人と両親で作った7人の大家族。
友人家族を呼んで宴会したりクリスマスイベントだったり、
この家での十数年は人生の最大イベントだった気がする。

窓明かりがつき始めた「この家」にはどんな人、家族が住んでいるんだろう?
自分の建てたこの「箱」は、自分のものでなく巣立っていった子供たちのように自立し、
次の家族を見守り育てる「家」なんだ!と。
何十年の経ってまたちょっぴり大人になった自覚を覚えた。

この場所を立ち去るにあたり、この「家」に住んだ家族が
それぞれにここでの思い出を持って歳を重ねていける感謝をこめて、
心の中で「ありがとう」の言葉がふわりとあふれ出た。

最寄駅から電車を乗り継ぎ、駅改札を出て十数分歩くと数年すんだ
我が家(アパート)の明かりが見えてきた。
一棟に5世帯が住んでるここも、やっぱり大家族なのかな?(写真2)
先日の大雪では、アパートで最年長の私が率先して雪かき。
隣の子供のために雪だるまをプレゼント!(写真3)
この夏はアパート中庭で、住民揃ってバーベキューでも企画したい!と、
わくわくしている60代男性です。

捨てられない手紙

ダイ さんの投稿作品:

私は自分の家が嫌いだった。
友達のところと比べると高齢で口うるさい両親。
周りに色彩豊かな新築が建ち並ぶ中一際目をひく、
木造のなんとも古めかしい茶色い私の家。
友人宅に遊びに行く度に若い両親ときれいな新しい家が羨ましく、
自分のことをそれはそれは惨めに思ったものだ。

県外の大学へ進学、待望の1人暮らしが始まった。
我慢していた古臭い家とも、疎ましい家族ともこれでおさらば。
料理なんてしないが、新しさに惹かれIHコンロ付の新築アパートを借りた。

家からは何度か手紙が届いていたが、
バイトに授業に、遊びにと忙しくしていた私は、手紙の封を切ることもなかった。
携帯にもよく実家から着信があったが、電話口に出るのは10回のうち1回ほど。
いつしか、あの古めいた実家のことも、両親のことも頭の片隅からすっかり消えていた。

月日が流れて私は大学3年生になった。
神様はそんな親不孝な私に罰を与えたかったのかもしれない、
それまで大きな病気などしたことのなかった私が、肺気胸という病に掛かった。
緊急入院が決まり、遠く離れた県から両親が飛んできた。
術後も母親が付っきりで看病してくれ、私は順調に回復した。

思えば実家を離れ、私の生活は荒れていた。
深夜遅くまでバイトに明け暮れ、
格好付けでそれまでさらさら興味のなかったタバコを始め、
食事は一日一食、コンビニ弁当を食べれば良いほうだった。
そのくせお酒だけは毎日のように友人達とわいわい呑んでいた。

私の回復を見届け、母が実家へ戻っていった。
それまで見てみぬふりだった自分の今の生活態度、そして
蔑ろにしていた両親のことを、久しぶりに長い時間想った。
ふと実家から届いていた封書の存在を思い出し、
何通もの手紙を無造作に突っ込んでいたダンボール箱をクローゼットから引っ張り出して、
一通、また一通と開封した。

そこには、私の初めての1人暮らしを心配しつつも応援してくれている母の想いが
溢れんばかりに詰まっていた。
そして実家の畑の様子や愛犬の様子、父との会話など、
我が家の日常が細かに綴られていた。
母にせがまれたのであろう、時折父の筆跡で
「勉強に励め」と短い一文がオマケについていることもあった。

手紙の最後は、どれも決まってこう締めくくられている。
「困ったことや悩みがあれば、いつでも家に帰ってきなさいね。」
それ以来、社会人になった今も数ヶ月に一度は必ず帰省する。昔と何ひとつ変わらない。

一際目立っている茶色い我が家。
出迎えてくれるのは、相変わらず口うるさい両親。
ただ、ひとつ変わったこと。
私は自分の家が大好きだ。
自分を想ってくれる人がいる幸せを、この家がある幸せを、
これから先も忘れず大切にしていきたい。

思い出を胸に。

3月の空 さんの投稿作品:

私が小学生にあがる頃、父は家を立てました。
憧れのマイホーム。
二間しかないオンボロの古い家からの引っ越しです。
姉と同じ部屋でしたが自分たちの部屋ができ嬉しくて毎日が楽しかったあの頃。
家を建ててからも
父と母は相変わらず懸命に働き、会社はどんどん大きくなりました。

会社が大きくなり裕福になりました。
父は仕事の付き合いが増え家には帰らない事が多くなりました。
父がいなくとも母はこどもに食事を作らなくてはいけない、
お風呂や洗濯、掃除…
そして会社での仕事、本当に大変だったと思います。
幼かった私達こどもは思春期。
弟は心に問題を抱えるこどもになっていました。

すれ違う夫婦と引きこもる子ども。
裕福になることと引き換えに
家族がバラバラになりはじめていました。

その後…両親は長い別居の末離婚しました。
弟とはもう10年ほど音信不通です。
姉は優秀でした、今は海外で暮らしています。
私は結婚し、子育てしながら慌ただしく毎日を過ごしています。

離婚後、父は家にひとり残っていたのですが
数年前、
自分で建てた家を自分の手で重機で壊し更地にし土地を売りました。

もう家はなくなりました。
私は親が離婚しているのに…いつか家族がまた揃う日を夢見ていました。
父が建て私が育った家でまたいつかと。

瞼に焼きつく今はなき実家。たった1枚だけ部屋の写真が残っています。
私が大学入学で家を出て行く日の写真だったでしょうか…。
他人がみてもなんとも思わないごく普通の部屋の写真。
でもこの写真をみるたびにわたしの目頭は熱くなり胸がぎゅっと締め付けられます。
家族がバラバラになり始めた時の思い出は記憶の彼方に追いやり蓋をしているので…
思い出すのは楽しかった事ばかり。

幼い姉弟が瞳をキラキラ輝かせながら毎日楽しく過ごしていたあの頃が
鮮明に思い出されて…胸が熱くなります。
何も知らずに純真無垢で過ごしていた子ども時代。

思い出の詰まった家。

もうあの家はないけれど…
私の心の中ではずっと建ち続けています。
きっと遠くで暮らす姉の心の中にも、
どこかで頑張っている弟の心の中にも。

いつかマイホームを建てるのが今の私の夢のひとつです。
私の建てた家でまた家族が揃う日がくるかもしれない。
そんなことはないだろうけどもそう考えると
なぜか希望に満たされる私です。

二つの家で

あつし さんの投稿作品:

私には二軒の家がある。
一軒は私が人生の大半を過ごし、愛する妻と八年過ごした田舎の家である。
もう一軒はその妻と三年、子供たちと十五年過ごしている街中の家である。

今から十年前まで、私は山と川、緑あふれる家で妻、二人の娘、両親と暮らしていた。
家の前には田んぼと畑があり、新米と取れたての野菜が食卓に並ぶ家庭だった。
「このまま平凡に生きたい」
あまり野心というものをもたない、物足りない私であったが幸せだったと思う。

しかしそんな平凡な家庭に突然悲しみがおとずれた。妻の重い病である。
これから始まるであろう通院生活を考え、私は街中の中古住宅を購入することを決めた。
土地は狭く、緑も少なかったが通院という点では申し分なく、妻も喜んでくれた。
およそ二年あまりであったろうか、愛する妻は
私と二人の娘を残して天国に旅立ってしまった。

(これからどうやって暮らそう)
そう思っている私に近所の人は優しかった。
都会の人は冷たく、田舎の人は温かいという先入観にとらわれていた私の心は
ゆっくりと街中の暮らしの中でも温まっていった。
子供会を通じて多くのお父さんや、お母さんと交流ができたからかもしれないが、
そうでない私の父や母の世代の人も優しかった。

まだ妻が入退院を繰り返していたころ。
妻の付添いで私が遅く家に帰ったとき途中で買ってきたスーパーの袋から
コッペパンを取り出そうとすると、
すでに娘達は粒あんのいっぱいついたおはぎをほおばっていた。
「これどうしたんだ」と私が聞くと、娘達は「おばあちゃんが持ってきてくれた」と答えた。
このとき娘達がおばちゃんと言うのは長女の同級生の祖母にあたる人で
なにかと私達家族に声をかけてくれる女性だった。
このときの娘達の笑顔が嬉しかった。

あれから長い年月が過ぎ、娘達もそれぞれ短大生、高校生になった。
しかし残念ながら母の思い出も、昔の家で暮らした思い出もないと言う。
私と年老いた両親だけが昔の家の思い出を胸にしまっているのかもしれない。

しかし空き家になった昔の家の隣で築四十年の農作業小屋は健在だ。
私は春から秋にかけて農作業のためにほぼ毎日六キロの道のりを軽トラックで走る。
無人の家はすごく寂しそうだが、その家のご近所さんは相変わらず人懐っこい。
無駄話も多くて、ときどき農作業のじゃまになるじゃないかと思うときもあるが
日に焼けたおやじたちの笑顔は相変わらず愛くるしい。
私が一人で農作業を行っていると必ず誰かが声をかけてくれる。
「そうじゃねーな」
父から田んぼを譲り受けて間もない私に、からかい半分のときもあるが指導をして下さる。
その声を聞きまたまた近所のおやじさんが油売りに来る。
時々は陽の高いうちから一杯ひっかけてくるおやじさんもいる。

そんなときふと思い出すことがある。
(そうだこの光景だ)
それは私が幼いころから見ていた光景だった。
泥のついた顔で話す私の親父。そこに集まる近所のおやじ。みな幼なじみだ。
集まったおやじたちは時計をあまり見なかった。
日が暮れればそれぞれの家に帰っていった。
いまの私のように。

田舎には田舎の家の良さ。都会には都会の家の良さがあるんだなとつくづく思う。
そして二つの家を持つ金銭的リスクに迷う私の背中を押してくれた両親と、
田舎での暮らしに不満を言わず、新しい家でも笑顔でいてくれた亡き妻に
「ありがとうと」あらためて言いたい。

わが家の夏休み

makaho さんの投稿作品:

結婚以来30年余り過ごしたわが家。
子供たちとの楽しい思い出がいっぱい詰まったわが家。

南紀を襲った台風で、わが家も浸水。
水の恐ろしさを思い知らされ呆然とした日々を過ごしました。

主人の退職を機に、高台に平屋の小さな家を建ち、
今は、ふたりで自給自足的な生活を送っています。
時間がゆっくり流れ、ご近所さんとも仲良く・・・ 老後を楽しんでいます。

夏休みには、ふたりの子供たちが、孫たちを連れて帰省してくれます。
いつもは静かなわが家も、この時は、大賑わい。
孫たちの楽しそうな笑い声
子供たちの健康な話し声
そして、私たちも、嬉しい笑顔に・・・

家を建った時に、庭でバーベキューが出来るスペースを作りました。
そこで、みんなでバーベキュー。
主人が、焼き役
私は、カメラ役(笑)
「おいしい! おいしい!」
「じいちゃん、もっと焼いて!」
じいちゃんは、食べる間もなく焼いていました。

その後、孫たちは、浴衣に着替え、花火を楽しみました。
ちょっぴり、怖そうに、不思議そうに・・・

この場所の水やりは、「私に任せて!」と、
帰省中毎日水やりをしてくれました。

わが家の夏休みは、こうして過ぎ、又ふたりの生活に戻りました。

今年も、来年も、みんなでバーベキューが出来ることを祈って・・・
この小さな家にも、楽しい思い出が出来つつあります。

じいちゃんの仕事、かっこいいね!

セブンセブン さんの投稿作品:

私は、子どものころ父の仕事が嫌いだった。
自営で内装業を営む父は、毎日仕事でめったに休みがない。
父が、仕事から家に帰ってくると、いつも服や手は汚れていて、
私はそれが嫌で仕方なかった。私の父は、クロス張り職人。
友達のお父さんは、公務員、スーツを着て会社へ行くサラリーマン…。
何だか、きれいな仕事に思えてうらやましかった。
年頃になればなるほど、父の存在を遠ざけた。
いつだったかな、高校生のころかな。
父と口喧嘩をしたときに、「お父さんの仕事は汚い!はずかしい!」って
暴言を吐いた私に対して、父がだまったまま悲しそうな顔をしたことを今でも覚えているよ。
今思えば、あの時の私は、父の仕事を何1つわかっていなかったね。

私の結婚が決まって夫のご両親とお食事会をしたときに、
父が「僕の夢は、娘が家を建てるときに娘の家の内装工事をすることです。」と
言った言葉にはびっくりしたよ。
いつもは口数の少ない父だけど、そんな父の夢を聞いてしまったら、
どんなに父の仕事が嫌いでも、いつかその夢を叶えてあげたいと思うのが娘だよ…。

あれから6年が経ち。
父の60歳という節目の年に、私たち夫婦が家を建てることになり、
内装工事を父にお願いすることになった。
この時、私は、この歳にして始めて父の仕事をする背中を目に焼き付けることとなる。
いつも仕事で汚れて家に帰ってくる父の仕事は、家をきれいに仕上げる仕事だった。
無機質だった石膏ボードにクロスが貼られ、家がどんどん美しく魅せられていく。
そんな父の仕事をする背中を見て、一緒に見学に来ていた私の3歳の娘は、
「じいちゃんの仕事、かっこいいね!家がどんどんきれいになっていくね!
じいちゃん、本当にありがとう。」と父に何度も伝えていた。
子どものころの私が言えなかった言葉だ。
私は、父の仕事が嫌いだったはずなのに、娘が、父を褒めるのがとても嬉しかった。
今更だけど、恥ずかしくて父に直接言えないけど、
「お父さんの仕事、かっこいいね!お父さんの仕事、誇りに思うよ!
今まで本当にごめんなさい。そして、本当にありがとう!」

今日も、父が仕上げてくれた家を娘たちが、元気に走り回って遊んでいるよ。
これから、この家に家族の思い出をいっぱい詰め込んでいくよ。
この家が、私の知らなかった父の背中を教えてくれたね。ありがとう、私の家。

さよなら、教員住宅

まろみ さんの投稿作品:

この春、父が教員を退職する。
37年間、9つの街を回った。その間に、結婚し姉と私が生まれた。
転勤が数年ごとにあっても、単身赴任という選択はせず、家族で移動し続けた。
それ故私は教員住宅で生まれ、教員住宅で育った。

教員住宅はどこも間取りが大体一緒だった。
新しい住宅もあったし、古い住宅もあった。
周りの環境も違いが多かったけれど、家族で過ごす幸せな時間はどこも同じだった。
それぞれの住宅に沢山の思い出がある。

ほとんど記憶にない、写真で見る私の生まれた住宅、
周りに同世代の友達が多く楽しかった住宅、
潮風に吹かれ身長がぐんと伸びた住宅、
温泉地で湿気が多く、カビ対策に追われた住宅、
台所の窓から綺麗な夜景が見えた住宅、
高校生ながら雪遊びに興じた住宅、
受験勉強で四畳半の部屋に籠っていた住宅、
念願の二階建てなのに、大学に入り年に数回しか帰れない今の住宅。

私がたどってきた住宅の歴史は、そのまま私の、そして家族の人生を語るものとなっている。
姉と私が進学で家を去り、代わりにウサギが家族に加わった。
かつて四人分の栄養満点な食事が並んでいた食卓は、父と母二人だけの素食が並ぶようになった。

でも
母が私たちの為に服を作るミシンの音は変わらない。
父がいつの間にかリビングで居眠りする姿は変わらない。
家族がそろった時の安心感は変わらない。

そしてこの春、新しい家が建つ。
父と母が相談して作り上げた新しい家。
母念願の対面式キッチンが実現される。
父には趣味の鉄道模型を広げるスペースができる。
ウサギも一緒にお引越しだ。
そのうち、一人暮らし中の祖母も迎え入れる。

私が新しい実家と対面できるのは夏だ。
その頃には、我が家の色にすっかり染まっていることだろう。
今までの住宅でもそうだったように。

新しい家で、今度はどんな物語が生まれるのだろう。
これからも、幸せな笑顔に包まれる家でありますように。

強く美しく

まりえみママ さんの投稿作品:

「この物件は、もしお客様がご契約になられなければ、
我々の会社の借り上げ社宅にしたいほど魅力的ですよ。」
今から22年前、マンションからの住み替えで、中古の一戸建て物件を探していた夫と私。
仲介に入って下さった不動産会社営業マンの
本気(!)の一言を決め手にして「我が家」購入に踏み切った。

持ち主の方が、ご両親と同居されるために二世帯住宅を新築されて
手放すことになったこの家は、築3年目とは思えないほど美しい。
営業マンの思い入れが痛いほど伝わってくる。
気になったのは、3LDKの間取り。一階に21畳のリビングダイニングがドーンと一間。
二階に和室二間と洋室一間がある。使い勝手はどうなのか。
少し考え込んだが、間もなく第一子を出産予定だったこともあり、
広いリビングが子どもを伸び伸びと遊ばせられるスペースに思えて夢が膨らんだ。

生まれて間もない長女を連れて引っ越して直後から、このリビングは、とても重宝した。
段差も仕切りもないリビングの空間は、ハイハイしたり、つかまり立ちしたりと、
成長するにしたがってどんどん目が離せなくなっていく娘の子育てにはうってつけ。
天気が悪くて外に出られない日は、リビングの床にレジャーシートを敷いて
ピクニックをしたり、鬼ごっこをしたり…。まるで小さな公園のようなスペースになった。
二階の寝室に移動できない日は、リビングに布団を並べて寝起きした。

三年後に次女が誕生してからは、ますますやんちゃになって飛び回る長女と
寝返りも打てない次女の面倒を一緒に見られる貴重なスペースになった。
何しろ広くて見晴らしがいいので、二人の行動が容易に把握できた。

次女が二歳の誕生日を迎え、家も築13年目に差し掛かったある日。
私は、家のモルタル塗りの外装に数か所
クラークが入っていることに気付いてドキリとした。
そろそろ外装の塗り替え時期かな?…。
早速家の仲介に携わって頂いた不動産会社を通じて業者さんを紹介して頂き相談すると、
「2×4工法でしっかり建っていますが、大きなリビングダイニング一間で、
家の一階部分を支えている壁面と柱の数が少ないのが、防災上少し気になりますね。
この際、塗り替えではなく、家の屋根と壁面を強く美しくする
アルミサイディングを検討されてはいかがでしょうか。」
と勧められた。
塗装工事の約5倍かかる工事費用に、
夫と私は、驚き、迷い、この日から約2週間悩み続けた。

「よし、アルミサイディングに賭けてみるか」
夫と私が悩んだ末に決心する決め手となったのは、
業者さんの言った「強く美しく」の一言。
この家を中古で購入してからちょうど節目の10年目。
強く美しく生まれ変わらせて正真正銘の「我が家」にしようと、
大掛かりな外装リフォームに踏み切った。

既存のモルタル壁面を丁寧に洗浄し、防湿シートを貼って、
アルミの外装材を打ち付けていく作業は地道で時間のかかるものだった。
屋根の重ね張りまで施し、約3か月後に竣工した時は、感無量だった。
また、アルミサイディングを施してから、防音・防寒・断熱の効果が高まり、
省エネが実現できたのは、うれしい副産物だった。

強く美しく生まれ変わった我が家の広いリビングダイビングで、
娘たちは日を追うごとにますます伸び伸びと成長した。
学校に通うようになると、リビングに二人分の机を並べ、勉強スペースへと模様替えさせた。
壁には、九九や日本地図、高校や大学受験時には、数学の公式や、
歴史年表が貼られて、さながら寺子屋状態。
この環境が功を奏したのか二人とも公立の高校、大学に合格を果たした。

いよいよ2011年4月からは、長女次女揃って進学先に入学!と
夢を膨らませていた矢先に勃発したのが、あの東日本大震災。
大きなリビングで家族4人、長女の大学進学準備と翌日に控えた
次女の中学校の卒業式準備に追われていた3月11日午後2時46分、
震度6弱の揺れに突然襲われたのだった。全員でもぐり込んだ、
普段はびくともしない木製のダイニングテーブルが床をズルズル移動する。
家全体がギシギシときしむ。「お願い!地震止まって!このままじゃみんな死んじゃう!」
娘たちが悲鳴を上げた時、3分近く続いた恐ろしい揺れは、ゆさゆさと収まった。
恐怖で口もきけなかった私達4人が初めて口にした言葉は
「家、潰れなかったね。私達、家に命守ってもらえたね。」

家の中は、食器が割れたり、タンスの位置がずれたりしたが、
壁面や外装は奇跡的なほど無事だった。
強く美しく生まれ変わった我が家は、この家に住む私達家族の命も守ってくれた。
13年前に思い切って外装リフォームしていて良かった、
この家で本当に良かったと心から思えた。

この後長く続いたライフラインの途絶も、物資不足も、
私達家族は、震災後に一層強まった絆で乗り切った。

ありがとう我が家。思い出も未来もまた一緒に紡いでいこうね。

帰り道

単身赴任続き さんの投稿作品:

小学校5年の冬、引っ越して1か月も経っていない新居の近くで火事があった。
学校から帰ってしばらくすると、消防車のサイレンが鳴り響いた。
2階のベランダに出てみると、南東側の屋根の向こうから、真っ黒な煙が出ている。
これは近いし、大きい火事だ。

ひとりで留守番をしていた私は、サンダルを履いて家を飛び出した。
黒煙がうねるように立ち上っているのが、路地からでも見える。
私はそちらの方向に走った。5階建ての団地の陰になっても、煙が途切れることはない。
だが、火事の現場は意外に遠かった。やがて片側3車線の大通りに出た。
煙の勢いは大分弱まっていたが、それでもまだ火事の現場は遠い。
煙は茶色くなり、やがてほとんどが灰色になった。もう大勢の野次馬が帰る所だった。
私が現場に着いたときは、もう白煙と湯気がちょろちょろと立っていただけだった。
真っ黒い炭と化した柱だけが目に付いた。

私は、火事の現場を一瞥すると、引き返した。
家には鍵を掛けず、飛び出してきたのだ。急にそのことが心配になった。
だが、行きは煙と言う明確な目標があったからたどり着いたが、
帰りの道が分からなくなった。近道をしようと思うと、袋小路にぶつかる。
そうこうしているうちに、方向感覚もなくなってしまう。
元の道に戻り、必死に行きのルートを思い出そうとした。

とにかく家のことが心配だ。泥棒に入られているか。
もしかしたらあの家のように火をつけられ、今頃は跡形もなくなっているのではないか。
やっと片側3車線の大通りに出た。だが、さきほど横切ったところは見当たらない。
車のヘッドライトが道路を照らしている。
もう、火事などなかったように、いつもの夕方の渋滞が始まっている。

何とか行きに横切った交差点へたどり着いた。
北西の方角には、学校で習ったばかりの北斗七星が輝いている。
北風が強い。セーターしか着ていない体は、どんどん冷えてくる。
財布も時計も持っていない。まさか通行人に「ぼくの家はどこですか」と聞くわけにもいかない。
私は小走りで家路を急いだ。サンダルのベルトが当たる部分が痛い。
見ると、ベルトの一部がほつれている。それでも家のことを考えると急がざるを得ない。

やっといつもの公園に出た。わたしは全力で走った。
家には穏やかな電気が点いていた。
私が開けっ放しで出てきた鍵もかかっている。誰か帰ってきたのだ。
私は安心するとともに、怒られることを覚悟した。
ドアを開けたのは母だった。
「どうしたのよ。鍵開けっ放しで。1時間も経って」
予想通りの怒鳴り声がした。私は理由も言えず、下を向いていた。母は続けた。
「誰かにさらわれたか、急病で救急車、乗せられちゃったかと思うじゃない」

これは予想外だった。
私がこの家に誰かが入られることを心配している間、母は私のことを心配していたのだ。
「いつまでそんなところ、突っ立ってんの。早く上がりなさい」
母はガスストーブを最強にして私の方に向け、自分のコートを着せた。
いつの間にか、妹が2階から降りてきて私を見つめている。
私は母と妹に見つからないように、サンダルに擦れて皮がむけた足を出した。

私はこれだけの失敗をしても、暖かい部屋でこのようにくつろぐことができる。
だが、火事に遭った人たちは、今頃どうしているのだろう。
私が現場に着いたとき、火はほとんど消えていた。
それを見た私は、拍子抜けした。
心のどこかで、燃え盛る火事を期待していたのは確かだ。そんな自分が情けなかった。

やがて父が帰り、いつもと同じ夕食が始まった。
先ほどまで運動をしてきたはずなのだが、食欲は湧かない。
それでも、母の手前、無理をしてご飯をお代わりした。

震災後のタイムカプセル

たいちゃん さんの投稿作品:

一戸建ての自宅を建てた翌年、新しい生活に慣れてきたころ、
裏庭にタイムカプセルを埋めることになった。
タイムカプセルといっても「コーヒーの空き瓶」だ。
その時、二人の息子は小学4年と6年。
その中に、手紙と共に小さな記念品を入れて埋めた。

そして自宅を建ててから26年後の2011年3月11日、東日本大震災で被災した。
自宅は1階の柱を残して全壊状態、かろうじて2階は助かった。
しかし生活は出来ない。1年半後の2012年10月に修理した自宅に戻った。

自宅に戻りしばらくしてから、タイムカプセルの事を思い出し、
すでに結婚して別々に住んでいた二人の息子に連絡して掘り起こすことにした。
総勢8人(私たち夫婦・長男は妻と小学2年と4年の二人の娘・次男夫婦)だ。
くしくも、息子たちがタイムカプセルを埋めた時と同じような歳の孫だ。
その孫たちと一緒に掘り起こした。

なかなか探せなかったが遂にビニール袋に入った瓶を発見。
歓声があがった。大げさに言えば感動の瞬間だった。
開けてみると、中身は湿気で濡れていたが、
埋めた当時の手紙と共に息子たちの小さな消しゴムでできた玩具等が出てきた。
孫たちは興味深く、それを宝物のように見ていた。
自分は自分の手紙が照れ臭かった。しばし、懐かしい時間を味わった。

何日か後に、また新しいタイムカプセルを埋めようという話になった。
そして翌年、次男の結婚記念日に合わせて、
掘り起こしたと所と同じ場所にタイムカプセルを皆で埋めた。
今度のタイムカプセルは密閉度の高い瓶にした。

掘り出すのは、長男の長女が20歳になる2024年と決めた。
その時まで、自分は生きているかどうかは分からないが楽しみだ。
そして、その時、また新たなタイムカプセルを埋める話に参加できることを願っている。

お話大好き

美咲ママ さんの投稿作品:

2歳になり、お話で出来るようになりました。日々成長するわが娘
可愛くポーズも決まってます。

リビングの窓から見える空

修行中のパティシエ ai さんの投稿作品:

進学で寮に入った
就職でワンルームに一人暮らし
妹が進学でこっちに来て広めのマンションに二人暮らしになった
妹も就職でまた一人暮らし
そしてもうすぐ私もまたここを出て行く。

今日、わたしは実家にいる。
一番長く住んだ、いや私が育った、私を育てた家だ。
再び引っ越しする私。
でもこの家に戻ってきたのはこれからここに住むからじゃない。
会いにきたのだ、父と母と、この家に。

私は小さい頃からリビングの窓からみる景色が好きだった。
我が家で一番大きな窓。
景色と言っても駐車場と隣の家と、でも覗けば公園の桜の木だって見えたし、
猫が庭に迷い込んでくるともあった。だまって煮干しをあげたりね。

でも一番気に入っていたのはその窓から見える空だ。
窓際の床に寝転べば広く広く空を感じる事ができる。

中学生の頃、流星群がくると聞いた私は真夜中その窓から空を眺めていた。
窓際で体育座りして。
いつもは早く寝なさいという母が私の隣に座った。
二人で毛布をかぶって、流れ星を待ってた。

ふと子どもの声が聞こえた。窓から見える隣の家に小さな子どもの姿が見えた。
あの家に子どもなんかいたっけ。
『娘さんが結婚して隣に家を建てて住んでるのよ。』と母が教えてくれた。
そうなんだ、そういえば年の離れたお姉さんがいたような気がする。
私がまだ実家を出る前は静かになっていたその家もなんだか元気そうに見えた。
また賑やかになっていいわね。と母は笑った。

私がここを出て行ってもう10年近くなるね。
早く帰ってきてほしいって思ってることは知ってる。
子供たちがみんな巣立ってしまって寂しい事もわかってる。
ごめんね。

ねぇ、お母さん、あの日の流れ星にお母さんはいったい何を願ったのかな。
私は何を願ったんだろう。

もちろん私はこの家が大好きなんだよ。
だから今日は帰ってきたんだよ。

ここからすべてがスタートしたんだから。

リビングの窓から見る空。
我が家で一番大きな窓。
今の私にはね、この窓から見えるこの空がフランスにつながっているように思えるんだよ。
その事を伝えに来たの。

フランスから戻ってきたら、今度はどんな空にみえるかな。

いつも一緒♪いつまでも仲良し三つ子でね!

ヒロママ さんの投稿作品:

1000gにも満たない小っさな体で産まれてきた時は、すごく心配したんだよ。
でも今では、わんぱくすぎるくらいで、すくすく育ってくれて、ママは毎日楽しく過ごしてます♪
いつまでも、仲良し三つ子でいてくださいね。

シャボン玉

tatsu909 さんの投稿作品:

家の庭でシャボン玉を飛ばすわが娘です。
自分の好きなことは、周りも気にせず、夢中になる性格です。

パパ夫

tatsu909 さんの投稿作品:

今年の2月に大阪でも雪が降り、我が家のベランダにも積もりました。
せっかくなので、雪だるまを作ってみたら、娘に大好評!
「パパにそっくり!」とのことで、パパ夫という名前が付きました。
また娘に言わせると、溶けた雪だるまは死んでしまうのではなく、
地面に染み込んで、地球の裏側のブラジルに行くそうです。

父の作るキンピラゴボウ

かみや さんの投稿作品:

ご飯が欲しくなるような、とてもいい匂いがした。
父がキンピラゴボウを作っていた。
久しぶりの父の手料理だ。

父の作る料理は個性的だ。
いつも具が大きく、料理に構わずあれやこれやの具材が入っている。

具が千切りにされている一般的なキンピラゴボウと違い、
父の作るキンピラゴボウは五倍くらいの大きさがある。
そして、玉ねぎやしいたけ、ひき肉が入っていて、
鷹の爪は少し多めでピリ辛よりもちょっと辛めだ。
見た目は不格好で、味もオリジナルが入っているが、なぜだかそれが癖になる。

実家に住んでいた頃の私は父の料理が苦手だった。
レシピ本のようなきれいな料理に憧れていた。
だから父の作る料理に文句を言ってしまったこともあった。

一人暮らしを始め自炊をしはじめて、憧れのきれいな料理をはじめた。
でもすぐに、忙しくなり外食が増えていった。
おいしい食べ物はたくさんあるのに、食べても何かいつも満たされないでいた。

その何かを父のキンピラゴボウが思い出させてくれた。

不器用だけど愛情深い父の作る不格好なキンピラゴボウは私の大好きな一品です。

お雛様かざろう

よこすかおかぴ さんの投稿作品:

今年、私に、妹が誕生して、お姉さんになりました。
「私だけのお雛様」が「二人のお雛様」になりました。
ちょっと、寂しい気もしましたが、妹のために我慢しました。
去年までは「見てるだけがお手伝い」と言われていましたが、
今年からは飾り付けに参加しました。
よちよち歩きの妹には「見てるだけだよ」と何度も言いました。
二人の大事なお雛様です。

最初は2人だったね・・・

アイアイ さんの投稿作品:

あれから何年たったのかな?

狭い部屋だけど、
1人増え、また増えて、またまた増えて。

狭い部屋だけど、
だんだん賑やかになってきたね。

白くて可愛いねずみちゃん。
今では、すっかりみんなの家族。
最初は、恥ずかしがり屋さん・・・だんだんみんなと仲良しに。

家の中をかけっこしたり、
手の温もりを感じたり、
こたつの中でうたた寝したり、
お腹がすいたと、おねだりしたり、

狭い部屋だけど、みんなで
笑ったり、
泣(鳴)いたり、
ケンカしたり、
ご飯食べたり、
テレビ見たり、

狭い部屋だけど、みんながいるって、
ステキだね!!
温かいね!!

狭い部屋だけど、みんながいると、
お城のように、大きいね!!

狭い部屋だけど、みんなに合えたこと、
いつまでも忘れないよ!!

狭い部屋だけど、
いつまでも一緒にいようね!!

家族を見守ってくれる家

mieno さんの投稿作品:

私は4人兄弟の長女だ。
短大を出て、NECで4年0Lをして、独立してコンパニオンの派遣会社をつくった。
25歳から37歳迄、家を出て一人暮らしをした。
気ままに自分勝手に生きて来た。
光陰矢の如し。その間本当にいろいろなことがあった。

家を建て替えて、新しく建てたと聞いた。
他の兄弟は皆、結婚して家を出たと聞いた。
市会議員に立候補して、選挙運動期間中に脳梗塞に倒れて、
半身不随になり、兄弟、家族が助けにきてくれた。
入院させてくれ、一人暮らしのマンションを引き払い、
掃除してくれ、奈良の自宅に帰った。
妹が汚れてこてこての私の化粧品のケースや筆を拭いてくれ、
親戚のおばちゃんと母親がマンションのゴミ屋敷のような私の部屋を片付けた。
兄弟で病院のベンチに座っていたとき、
母親が泣いていたのをなぜか今でもはっきり覚えている。

それから奈良の自宅に戻り、母と父と私で住み始めた。
父親は糖尿病で寝たきりで、母親は、靴下の工場で働きながら、父親の介護をした。
私はリハビリをして、心斎橋の私の会社もたたみ、サラリーマンとして勤めに出た。
歩合制の営業職だ。

父親はアルコール依存症で時々暴れたり、叫んだりしていた。
週に2、3回、お医者さんに自宅にきてもらい、
最後は食べる事も、水を飲む事もできなくなり、
母親がたんをとったり、しもの世話をした。
そして病院で家族に見守られ、息を引き取った。

母親も靴下の工場を解雇され、時々、掃除等の仕事を見つけてパートをしたり、
スポーツクラブに通ったり、目や腰、
いろんな持病の病院に通い、いろんな薬を飲んでいた。
家庭菜園と、聖教新聞をとっていて、南無妙法蓮外教と毎日父親の仏壇で拝んでいる。
母親は綺麗好きで自宅はいつも清潔に、整理されていて、
いろんな料理のつくり方の記事を切り抜き、おいしい料理をつくっていた。
家の玄関の庭には季節の花が咲き乱れ、裏の庭では野菜をつくっていた。

パナソニックで役員の秘書をする、妹は親思いで母親と仲がよく、
よく孫の男の子2人を連れて、泊まりにきたり、ケーキを持って母親にあいにくる。
自身も共稼ぎの為、子供に病気等、急なトラブルが発生すると、
70歳になっても車を運転している母親が妹の自宅に助けにいき、晩ご飯をこしらえる。
その孫達もいつしか大きくなり、手がかからなくなる。

今こうして自宅に戻り13年ぐらいの月日が流れ、家とはすごいと思う。
家族の生き方を全部受け止めてくれ、見ていてくれる。
父親はタイル貼りの職人だった。
よくお酒を飲んで家族に乱暴して母親は大変な苦労をした。
しかし、一時期仕事で儲けたのか、父親に仕事がなくなり、寝たきりになった。
母親も仕事がなくなり、働かなくなり、年金にも入っていないが、
母親は、ずっと貯金をくずして20年くらい生活している。

「お父ちゃん、偉いやろ、家立てて」としみじみ母親がいったことがある。
苦労させられたが、母親は、一緒に働いたお金といい、貯金で人並みに生活できる。
そのおかげで、安い給料のサラリーマンの私は、5万円家にいれるだけですんでいる。
妹も母親にお金を渡しているらしいが、
私は、比較的自由に、やりたいことが出来き、生活ができている。
男の兄弟は、お嫁さんに財布を握られていて、母親には一切援助していないらしい。
これから先、母親が病気になったらやばいと先のことも考え、
ようやく、蓄えもしないといけないと思っている。

私の自宅は父親が大工さんと一緒に設計を考え、お風呂は父親がタイルを貼った。
見事な職人技で、お風呂にはいる度、父親の人生に改めて思いをはせる。
4人子供を育てる事に一生懸命で、子供は皆勉強家だったので
大学や短大迄出してくれた。本当に感謝しないといけない。
私は普段は自宅でご飯食べず、午前6時半に家を出て、午後11時頃帰宅するが、
野菜ジュースとお菓子がいつも出されている。
そして毎日台所の様子や、冷蔵庫を1段、1段見て、観察するのが好きだ。

母親は現在73歳だが、驚く程頭脳明晰で、腰痛は酷いらしいが元気だ。
母親の誕生日や母の日には兄弟から花やバック、電化製品が送られれてくる。
今後母親が亡くなり、私一人になったらどうなるのだろう。
母親もそのことをしきりに心配している。
私は整理整頓が大嫌いで、いつも汚い、汚いと母親に怒られている。
きれいに整理されている家が汚く、乱雑になったらどうなるのだろう。

私は現在再び独立できないか、最後の夢に想いをはせていて、
家政婦さんに週に1回きてもらうと言っている。
またお金を儲けて、奈良の家は出て、大阪に住み、
奈良の家は弟の子供に譲ると言っている。
巡り巡って人生は過ぎて行く。
家はその時々で住む人、部屋を使う人は変わるけれど、
黙って暖かく、私達家族を見守ってくれている。感謝である。

晴れ渡った空の下で

ぐっち さんの投稿作品:

社会人となって地元を離れ、もうすぐ一年になる。
私の姉は結婚して実家を離れた。
私の妹は実家で暮らしているが、大学生活やアルバイトで
忙しくてあまり家にかえっていない様子。
私もなかなか実家に帰らないので、家族の様子とやらが全くわからない。

4年前に、父が宮古島で100kmマラソンに挑戦することになり、
その時に久しぶりに母・姉妹揃って応援に行き、家族旅行をした。
父が100km走りきったのには感動し、素晴らしいと思った。
家族で旅行できたのも久しぶりで、楽しさとやすらぎを久々に感じた。

そうだ!
今度は私が100kmマラソンに挑戦して、もう一度家族旅行をしよう!

私と父が100kmに、妹と姉の旦那が50kmに挑戦した。
実家に帰った時に父と練習を重ね、当日に臨んだ。

当日は晴れ渡った晴天に恵まれた。
マラソンをするのには絶好の日となった。
緊張しながらも、経験のある父について走り50kmまで進んだ。
しかし、その後は父と離れ、足が痛くなり走れない状態になってしまった。
走り切りたいという思いはあったが、歩くのも困難となり、仕方なく途中棄権をした。
ものすごく悔しくて、涙が止まらなかった。

応援をしてくれていた母と姉、姉の子どもに合流し、一緒に応援に回ることになった。
応援中も涙は止まらなかったが、母や姉、姉の娘に励まされ、
挑戦したことを無駄にならないようにしてくれた。

父は100kmを、妹と姉の旦那は50kmを完走した。
自分が走り切れなかったことは悔やまれるが、みんながゴールしたことは本当にうれしかった。

自分はゴールできなかったけど、ここに家族と来れたことはかけがえのない思い出です。
私が「100kmマラソンに挑戦する!」と言ったとき、父も一緒に走ると言ってくれたこと。
そして、家族が応援に来てくれる、姉夫婦も来てくれると
言ってくれたことは、本当に心強かった。
実家を離れていても、私は一人じゃない。
かけがえのない大切な家族がいることを誇りに思う。

いつかリベンジマラソンするときも、一緒に来てね。
晴れ渡った空の下で、一緒にジャンプしようね。

陽だまり

ふうた さんの投稿作品:

我が家のアイドル、愛犬タロー君。
今日は、おじいちゃんが作ってくれた陽だまりのウッドデッキでごろんごろん。。。
愛くるしいタローを優しい眼差しで見つめる妻と娘。笑い声も聞こえてくる。
大きな幸せは少ないかもしれないけど、こんな楽しく幸せな毎日が続けばいいな。。。
そんなことを願いながらシャッターを切りました。

母娘

たろりん さんの投稿作品:

いたずらっ子の一人娘。今宵はお風呂の方から大きな笑い声。
そっとのぞいて見ると、エステと称して、妻へのメイク遊び。
おやおやメガネまでかけさせて!
こ、これは面白い。。。思わず私も大爆笑!(^v^)
殺伐とした時代が加速しているけれど、いつまでも笑い声が絶えない、
そんな幸せな我が家であって欲しいと願うばかりです。

母娘

風鈴 さんの投稿作品:

甘えっ子の一人娘は、いつもお母さんにべったりです。
今夜も甘えて耳かきをおねだりして(*^_^*)
知らず知らずのうちの大きくなっている娘。
いつの日か、私たちのもとから巣立って行ってしまうのだろうか。
ふと不安や寂しさがこみ上げてくる時もあるけど、
こんな小さな幸せな時間が、いつまでも続いて欲しいと願ばかりである。

二春

Mai Chi Tho さんの投稿作品:

私はベトナムだけど、
私は、日本の企業で働く
我が家、幸せ、私のモチベーションの写真

たくさんのありがとうを乗せて…

よっしー さんの投稿作品:

幼かった私の、”宝物”を覚えていますか?
習っていたお習字のテーマででた”宝物”に、”家族”と書いたことを覚えていますか?

いつも忙しそうに動き回っていたお父さん。
毎日遅くまで仕事をしていたお母さん。
なかなか家に帰ってこなかったお姉ちゃん。
気の強い頑固なおばあちゃん。

あの頃の私には、家族が集まるわずかな時間が
本当に本当に楽しみで、とても幸せを感じるひと時でした。

個性溢れる家族で、周りと全然ちがくて、変わり者の家族が大好きでした。

だからね、
家族をうっとおしく思った十代の自分が大嫌いでした。
家を出たいと心底願っていた自分が大嫌いでした。

でも、
そんな私が家族から離れたいと思った理由は、みんなが嫌だったわけじゃなくて、
”また昔のように大好きな気持ちを取り戻したかった”から。
家を出て、たくさんたくさん気付いたことがあります。

それは、
家族の為に必死に働いてくれていたお父さん。
忙しくても母親として一生懸命だったお母さん。
年の離れた私をいつも気にしてくれていたお姉ちゃん。
母親代わりに大切なことをたくさん教えてくれたおばあちゃん。

自分がどんなに愛されていたのかということに気付くことができました。

そして、

結婚することになりました。

お父さんに似て、ちょっぴりシャイで思いやりのある彼を、
お父さんのことが大好きなお母さんのように、
たくさんの愛で支えていきたいと思います。


お父さん、お母さん、お姉ちゃん、おばあちゃん、
わがままで自分勝手な私で、ごめんね。

そして、
たくさん、たくさん、ありがとう。

飛行機に乗らないと会えなくなってしまった今、
昔より集まることが難しくなったけど、
家族が集まる時間は、今でもやっぱり、私の”宝物”です。

全快祈願、健康祈願

よっしー7 さんの投稿作品:

十数年前、父母の家の隣に家を建てました。
地鎮祭は好天に恵まれ、その後も工事は順調に進み、
希望通りの家を建てていただきました。

ところがその2年後、私は健康診断で大腸に
異常が見つかり、入院することになりました。
ガンだったらどうしよう・・・
万が一のときは家族はどうなるのか。
そんな考えが頭の中を巡りました。

幸い良性のポリープを1個摘出するだけで済み、
1週間で退院しました。

入院中、妻と娘は毎日お見舞いに来てくれ、
娘は何枚も絵を描いて持ってきてくれました。

この絵はその中で1枚だけ残っているものです。
当時飼い始めた猫と、私が好きなものを
描いてくれました。

猫にゼンマイが付いているようであったり、
コーヒーの「コ」の字が逆であったり。
今見ても頬が緩んでしまいます。
私の宝物です。

家族がいること、家があることっていいなあ。
仕事に疲れて帰ってきても、妻に怒られても
おやじギャグを大学生の娘に無視されても、
心の底からそう思います。

家族も家も、健康第一。
つつましくとも、
皆で楽しく毎日を過ごしたいと思います。

海岸沿いのアパートと家族

ペー助 さんの投稿作品:

あれから41年が過ぎました。そうです!
夫婦となって、そんなに長い時が過ぎたのです。
同郷の二人が結婚して住んだのは、明石市内の海岸沿いのアパートでした。
目の前数十メートルには海岸、その先には淡路島が見えました。
私は電車を乗り継いで、神戸市内の会社へ通勤しました。
二年が過ぎた頃に、長女が生まれました。

歩けるようになると、一緒に海岸を散歩したものです。
春先になると、養殖のワカメが浜に流れ着きます。
夫婦と長女の三人で、ワカメを拾い集めました。
味噌汁に入れて食べると、本当に美味しかった。
休日には、目の前の浜で投げ釣りをしました。
遠浅なのでキスが良く釣れたのを覚えています。
潮の香りを嗅ぎながら、毎朝通勤しました。
長女が泣きながら追っ掛けてきます。

休日には家族三人で、須磨・明石・元町・三宮に出掛けて、
買い物や食事をしました。
元町商店街で長女が迷子になり、青くなったのを覚えています。
明石公園にも行きました。広い公園で楽しく遊んだことを、今でも覚えています。
大阪や京都にも出掛けました。やがて長女にも近所の、友達ができました。
そうなれば現金なもので、私が出掛ける際も追っ掛けて来なくなりました。
そうなると父親は寂しくなるものです。

長女が4歳になる頃に、2女が生まれました。
不思議なもので長女は甘えるのか、再び私の後を追っかける
ようになりました。それから半年後の春先の頃、転勤が決まりました。
長女の小学校入学前だったので、慌ただしかったのを、今でも記憶しています。
時は過ぎ二人の娘も嫁いで、去年の11月には初孫が生まれました。
神戸・明石は、私たち夫婦にとって、第二の故郷となりました。

家族と家と二代の愛犬

ペー助 さんの投稿作品:

シンガポールでの4年間の駐在生活を終えて帰国したのは、今から24年前のことでした。
私たち夫婦の故郷にある、事務所に所属することになりました。
長女の高校受験のため妻と娘は、1年前に帰国していました。
住居は会社借り上げの家でした。
1年振りに会う二人の娘が、大きくなっているのには、吃驚しました。

確保してあった土地に家を新築したのは、それから8ヶ月後のことでした。
引越をしたのは、8月の上旬です。
暑い1日であったのを、今でも覚えています。
長女は自宅から少し離れた中学校へ、2女は目の前の小学校へ通学しました。
2女の希望で愛犬を飼うことにしました。
牡のマルチーズで、モ―タローと名付けました。
モータローは直ぐに家族のアイドルとなりました。

二人の娘は幸いに、私の母校である高校に入学しました。
土地を買った時に植えていた、梅の木が大きく育ち花を咲かせ実も成りました。
残念なことに梅の木は、台風19号で枯れてしまいました。
時は過ぎ2女は大学卒業後、就職して上京しました。
直後に私も千葉県内の、事務所に転勤となりました。単身赴任でした。
留守宅から妻を呼び寄せ、2女も合流して関東・東北方面への、小旅行を楽しみました。
自宅には年1回程度しか、帰れませんでした。

ある日のこと妻からメールが入り、モータローの死を知りました。
寿命(十四歳)とは言いながら、ショックで2週間は立ち直れませんでした。
六十歳で退職帰省しました。
私を出迎えたのは、妻と2女と2代目愛犬スタン(牡のトイプードル)でした。
2女が退職祝として、私にプレゼントしてくれました。
それから現在に至るまで、スタンとベッタリの生活を送っています。
2代の愛犬が、家の戸などを齧って疵だらけですが、気にしていません。

時は過ぎ娘二人は結婚して、自宅に住んでいるのは、夫婦とスタンだけです。
関東に嫁いだ2女が、去年の11月に初孫を出産しました。
妻は応援で2週間、家を開けました。
私はスタンと留守居役を勤めました。
今年の春過ぎには、初孫の“湊”君が、自宅に勇姿を見せてくれます。

シンガポールでのマンション生活

ペー助 さんの投稿作品:

今から二八年前からの四年間、家族帯同のシンガポール駐在生活を、経験しました。
妻と娘二人の四人家族です。当時の日本は、バブル期に突入した頃でした。
逆にシンガポールの景気は良くなくて、外国人勤労者の受け入れが
制限されて、厳しい時期でした。
私だけが単身で、二月に赴任しました。家族を呼び寄せるまでは、ホテル住まいでした。
政府からの許可が下りずに、イライラして過ごしていました。
もちろん他の同僚も同様でした。

やっとこさ許可が下りたのは、五月に入ってからでした。
そして住むべき自宅(マンション)を、確保しておきました。
チャンギ空港で、三カ月ぶりに家族の顔を見た時は、本当に嬉しかった。
空港からドライブして、マンダリンホテルに着きました。
ホテル内のレストランでの、食事料金が高いのに、家族が驚いていました。
翌朝マンションに直行しました。
詳しい住所は忘れましたが、同国の中央付近だったと思います。
選んだ理由の第一は、二人の娘たちの為でした。
日本人学校(小学校及び中学校)が、近くにあったからです。
二人の娘は、マンション敷地内に迎えに来るスクールバスで、通学しました。
さてマンションに着いた家族は、喚声を上げておりました。
新居及び周囲の環境が、気に入ったようでした。
到着していた梱包を開けて、整理をしていました。落ち着くまでに2~3日を要しました。
下校してからの娘二人は、敷地内にあるプールで泳ぎ、
嬉々として日々を過ごしていました。
週末には家族連れで、日系百貨店に買い物に出掛けました。
店員との会話も、日本語で何とか通じるので、家族も安心していました。
買い物の後は食事をして帰りました。ところで同国で生活するには、車は必需品です。

家族へのサービスも私の仕事でした。
慣れてくると妻はタクシーを呼んで、一人でオ―チャド通りに買い物に出掛けていました。
更に慣れた頃我が家は、事務所の同僚及び
シンガポリアンスタッフを、ホームパーティーに誘いました。
事務所創立以来の慣習みたいなものでした。
当日は招待客の家族も含めると、二十~三十名近くが集まり大盛況でした。
日本の普通のマンションでは到底無理で、同国のマンションは広くて、何とか入りました。
一つ記憶に残っているのは、
鍋料理に合う彼等の調味料は、チリソースだけということです。

駐在期間中に、私たち夫婦の実家・親戚の家族が、やって来ました。
その送り迎えから観光案内も、駐在員である私の仕事です。
妻の両親及び親戚が、来た時に一騒動が起きました。
チャンギ空港に出迎えましたが、手違いでピックアップすることが、できませんでした。
止むを得ず自宅に帰りました。暫くして妻の妹から、電話がかかって来ました。
「今このホテルに着いた」と。
ホテルに行き部屋に入ると、疲れて不安そうな顔が五つ見えました。
翌朝自宅のマンションに、連れて行きました。
街の案内や食事買い物で数日間を過ごしました。
子供たちは敷地内のプールで、泳ぎ喜んでいました。
そして無事帰国しました。
マンションの地下に、スカッシュの施設がありました。
2~3回プレーしたが、面白くなく止めました。家族も同様でした。

食生活が影響したか、生まれて初めて私は、尿結石を経験しました。
その時の痛さと言ったら、とても表現できません。
天井が落下して来たと、表現しておきます
。タクシーを呼んで、妻に付き添ってもらい病院に行きました。
女医に一言「ビールを飲め!」と言われました。

三年間が過ぎた後、妻と娘二人を帰国させました。
長女の高校受験のためです。
ところが帰国直前に、今度は妻が尿結石になりました。
妻は病院に一泊しました。家族は、夜行便でチャンギ空港を発ちました。
帰宅して広い部屋で一人寝た私は、寂しくて堪りませんでした。
一年後に私も帰国しました。
シンガポールからの外国旅行も、数回経験しました。
四年間の駐在生活は、正に夢の中に入るような気持ちでした。

大好きな我が家

ぷよまま さんの投稿作品:

夫と結婚して12年。9年間は、社宅暮らしだった。
社宅の4階が私たちの最初のおうち。
新婚の頃は4階の階段も苦ではなかったけれど、
子供が産まれると、階段は大変だった。
2歳になった子供と、生まれたばかりの子供を抱いて降りたとき、
すべってあやうく子供を落としそうなこともあった。
買い物帰り、眠ってしまった二人の我が子を
一人を車に乗せたままま片方をだっこして4階に上がり、
あわててまた次の子をだっこして上がったこともあった。

夫は、仕事が忙しくて
ほとんど手伝いが出来なくてごめんね、早く大変な階段じゃなくて、
新しい家を建ててあげたいんだけど、といつも言ってくれた。
でも、年下で、まだ新入社員だった夫と結婚した私は、
夫のお給料では、マイホームなんて、とんでもない、と、笑顔で聞き流していた。
狭い社宅は、ちょっと窮屈だったし、階段は大変だったけれど、
それでも可愛い二人の我が子と、素敵な夫と笑って過ごせる毎日は、
何にも代えがたい、私の宝ものだった。

そんな生活も8年を過ぎたころ、夫が家を建てる、と言い出した。
社宅でも十分なのに、と思ったけれど、下の子供が小学生に上がると、
勉強机が居間に二つはさすがに無理かな、と
思い直し、私たちのマイホームつくりが始まった。
結婚生活で、私のやることには何も口を出さず掃除がいまいちでも、
料理についても、すべて何もだめだしをしない夫だけれど、
マイホームつくりに関しては違った。
自分で間取りの研究をし、ソフトを買ってきて毎晩間取りを考え、
家つくりは、夫主導で始まった。

私は、家に関して特に希望はなかったので、住宅メーカー探しも、夫にまかせ、
営業マンさんとの会話も、夫がすべて行った。
そしていよいよ家つくりが始まった。仕事の忙しい夫だったけれど、
週末にはいつも建っていく家を見に行き、棟梁と話し込み、家はだんだん出来ていった。
そして、完成した我が家。私は感激して、涙が出そうだった。
引っ越して初めての夜。今まで泊まったどんなホテルより、旅館より、素敵だった。
こんなすてきな家に、これから毎日住めるなんて、信じられない気持ちだった。
子供達も、初めての自分たちの部屋に大感激、2階にもあるトイレに感激、
自分たちだけの階段にまた感激だった。
あれから、3年が過ぎた。あっというまの3年だったけれど、
まだまだあの時の感激のままに、私たちの素敵なマイホームは存在してくれている。
私は、毎日、こんなすてきな家を建ててくれた夫に感謝して、
これからも、この生活が続きますように、と心から祈っている。
この家で、家族仲良く、いつまでも元気に過ごしていきたい、と思う。

ただ、社宅暮らしだった頃の4階の階段の上りおりの生活は、
私たちのダイエットに一役買ってくれていたらしく、この家にうつってからというもの、
私たち家族の体重は、増加の一途をとげてしまっている・・・。
絶対に上らなければ帰れなかった家と、いかなくても済んでしまう今の2階では、
運動量の絶対的な違いは避けられない。
今の私の唯一の悩みは、どうすれば、
あの階段のように、毎日運動が出来るだろうか、ということだ。
でも、幸せだから、ま、いっか。

初登校日

utae さんの投稿作品:

今日から兄妹そろって小学校へ。

さよなら我が家

ベース さんの投稿作品:

子ども達が高校入学、大学入学、成人式、結婚と
過ごしてきた思い出のある家と別れの日です。
永年住み慣れた家が道路拡張工事の為の立ち退きですが、
子どもの成長、夫婦生活、サラリーマン生活と
私の人生にとっての「ありがとう、わたしの家」です。

成長が刻まれた柱

げんた さんの投稿作品:

私は三人兄弟の末っ子として生まれた。
三人とも腕白で、毎日家中を走りまわっては、壁に穴を空けたり、
落書きしたりして、いつも親父に怒られていた。
けれど、笑いの絶えない幸せな家庭だった。

毎日兄と一緒に遊んでいたのだが、
私は子どもながらに1つだけコンプレックスを持っていた。
兄弟の中で私だけ背が小さかったことだ。
親父はそのことを面白がって、家の柱に兄弟の身長を刻みだした。
私にとっては面白くなかったが、
身長を刻んでいくことが我が家の決まりごとになっていった。
私が中学生を卒業するころになると、身長差はみるみる大きくなっていった。
兄の身長は180cmを超えて、一緒に並ぶとますます私が滑稽に思えた。
高校生になって、親父がいなくなると、徐々に柱に身長を刻むことがなくなっていった。
その後、私も兄も成長し、次々と家を出て行った。
ひとり、またひとりと少なくなるごとに家の中はガランとして静かになっていった。
最後に、私が家を出ることになったとき、お袋もどこか寂しそうだった。
壁の落書きや身長が刻まれた柱など、
一人しか住んでいないということが不自然なくらい、
たくさんの思い出が詰まった家だから、出ていくのは本当に心苦しかった。

そして、私が結婚し娘もでき実家に戻ることになったとき、
我が家は以前と同じくらい明るくなった。
娘は、お袋に似てひょうきん者で、着いてすぐに家を気に入ったらしく、
私が子供の頃と同じように走りまわっていた。
以前住んでいたアパートでは、うるさくしないようにしつけていたから、
はしゃぐことができる環境が相当嬉しかったのだろう。
壁にある落書きを見ては喜んで、大好きなハートを書き加えていた。
私は、兄弟三人と親父の身長が刻まれた柱を久しぶりに見て、
娘の身長を刻むことにした。
娘もチビだったが、同じ歳のころの私の身長を超えていた。
また、私も身長を測ったが、親父の身長を優に超えていた。
私の身長は187cm。
「今なら親父の身長を笑ってやれるのに」なんて考えながら、
懐かしい思い出に浸っていた。

今も、3カ月に1度、娘の身長を刻み続けている。
身長を測ることがあれだけ嫌だったのに、
今は幼かった頃の思い出とともに娘の成長を実感し喜べる自分がいる。

いつも一緒

まり沢 さんの投稿作品:

初めてこの家へ来たとき、今よりもっとキレイで、広々していて、片付いていました。
まずは愛犬のドーベルマンが私たち夫婦の最初の家族になりました。
彼女が来てすぐ、私の妊娠が発覚。
日々大きくなるおなかをクンクンしたり、時には枕にして寝てみたり。
長いようで短いマタニティライフを共に送り、ついに長女が誕生。
広々していたリビングも、愛犬のハウスや、娘のベッドやおもちゃなどでもういっぱい。
二人が健やかに成長していくにしたがって、
うちの中はますます散らかっていくようになりました。

白かった壁はちょっと茶色っぽく。
キレイだったカーペットは所々変色が。
床には常に積み木やぬいぐるみや絵本が散乱。
遊んで、食べて、昼寝して。
いつも一緒の2人。

今はまだ犬のほうが“お姉さん”です。
うちの中では運動会が開かれることもしばしば。
部屋の端から端まで2人して追いかけっこしてみたり、
娘が積んだ積み木をお姉さんが鼻でチョンっとして倒してみたり。
娘に絵本を読んでいたらいつの間にやらお姉さんも割って入ってきたり。
くっ付いていたらお姉さんの温もりでついついウトウトしてしまったり。

主人は夜勤なので、2人が家族になる前は、いつも夜一人ぼっちだった私。
今では夜も寂しくありません。寂しい、退屈、と感じさせる暇もないくらい、
2人は私を忙しくさせ、幸せにさせてくれます。

広々としていたリビングも、今ではちょっと窮屈なくらい。
でもちょっと窮屈なくらいの方が、みんなの距離が
縮まっていいのかな、なんて思います。
憧れていた「広くてキレイなリビング」。
もちろんそれもいいけど、いつも誰かしらの体の一部が当たっている、
そんなリビングルームもいいかな、と思わせてくれたのはお姉さんと娘です。
いつしかまた、私一人ぼっちの夜がやってきます。
その時は、今よりちょっと古くなった家の、ちょっと片付いた部屋で、
リビングルームに入りきらないくらいのたくさんの思い出に囲まれながら、
お姉さんと娘の写真を見かえしているでしょう。

大家族が似合う、実家は武家屋敷

山のまーちゃん さんの投稿作品:

築、約500年の実家は、藩主の屋敷で鷹狩の休憩所だったときく。
物心がついた頃は戦時中で、疎開して来た人が頻繁に出入をしていて、
大袈裟だけど兄弟と従妹たちの区別さえつかなかった。
出征中の父に代わり、気丈な祖母は女子供ばかりの大世帯40人ほどを束ねていた。
山間の田舎でも食料不足となり、飢えをしのぐため
幼い子供や老人までもが、庭や荒れ地を開墾して農作業に励んだ。
夕飯は粗食でも一番楽しいひと時なのに、決まって敵機B29の爆音が迫って来るので、
食事を中断して薄明りを灯した防空壕に潜んだ。
大人たちは、「集落が少ないこの辺は落とす爆弾が勿体無いから素通りする。心配無用」
と言いながらも、時ならぬ夕焼けのような戦火の夜空を、化学工場だ、陸軍基地だと
市街方面を見上げて悲鳴と溜息をついた。
間もなく終戦を迎え、農地改革で殆どの土地が人手に渡り、悔しく辛い思いをした。

私は広いが不便な実家から、狭くて便利な都会生活に憧れて
大阪に就職、そして結婚した。
やがて、転勤した東京市ヶ谷の社宅は、6畳と3畳にキッチン、バストイレ付で
無駄のないコンパクトさに満足したし、大都会ど真ん中の生活も嬉しかった。
大阪本社勤務になり社内の敷地にある社宅での子育て生活になった。
子供たちのちょっとした喧嘩や病気は絶えないものの、
競争や助け合いのバランスの良さは社宅の有難さでもあった。
子どもが小学校に入るころ、マンションを購入、長いローン生活が始まって、
隣近所とのお付き合いが希薄になった。

大家族と田舎を知らない我子のためと、私もやがて別れる祖母や両親と過ごすため、
休暇ごとに実家へ帰省した。
帰省すると、父の呼びかけですぐに親類が集まって来る。
疎開の時を思わせる赤ん坊から老人までの集団生活である。
話上手な祖父母の「子どもは可愛がり老人は大切にせよ。世の中順繰りになっている」
との説教を聞いたり、父による恒例の戦争体験談を聞いたり、
大人までもが傍を離れようとしない。
丹精込めて栽培された果物や野菜の収穫、蔵や納屋での夜の肝試し、
河原のキャンプで魚捕りの体験等で内気な息子は逞しくなっていった。
子供たちは社会に出た今も、田舎での
この貴重な経験が役にたっていると口をそろえていう。

父母が没し、みんなが自立して実家が空き家になって10余年。
木登りをして遊んだ樹々は一段と成長して、
疎開時代を懐かしんで訪れる人々を桜や紅葉が楽しませている。
実家は所々を改築されたが、一抱えもある柱や欄間や床の間などに
昔の名残を見つけることができる。
私は家を出て半世紀の年を重ねた今、改めて
家系図を開き先人たちを想い、感慨にふけっている。

近くに住む老長兄は、実家の維持にお手上げ気味だが、
旧家保持の責任と未練に悩んでいる。結局は若い世代に任せることになるのだろう。
ローンが終わった我が家は、周辺に病院やスーパーができ、
新しい家々が増えて格段に便利になった。日常生活の便利さは老人にはとても有難い。
実家、転勤の先々、いまの我が家と随分と住み替えをしたが、
その分の思い出の多さを実感して得をした気分である。

「七五三」

しましま さんの投稿作品:

神社に七五三のお参りをする前に妻の実家へ。
姪っ子のお下がりの着物を妻が着付けしました。
その傍らで、妻の母が見守っています。
その後ろで、私が写真を撮っていました。
おばあちゃん、娘、孫、…三人の女性だからこそ
感じられる幸せを、私とこの家は見守っていました。

「一升餅」

しましま さんの投稿作品:

築30年以上にもなる実家。
昔造りの家なので風通しが良くて、
夏は涼しいのですが…冬は寒いです(笑)。
下の子の一歳をお祝いして「一升餅」をしました。
この日は、遠くから姪っ子の二人も来て
わいわい賑やかで、人の温もりに満ちて「家」さんも
今日は格別に温かかったと思います
古くなってしまった実家ですが、その分
またこうして世代を越えた思い出の詰った宝箱になりました。

我が家の柱

まるう さんの投稿作品:

母が一軒家を購入したのは、転勤族の父が病気で他界してから数ヶ月後のことでした。
私はまだ12歳でしたが、結婚するまでその家で10数年の刻を過ごしました。

現在、実家の居間の柱には子供たちの成長が記録され続けています。
帰郷するたびに母が孫たちの身長を測り、それを付箋に記入し貼り付けています。

不思議なことに、柱を見つめていると遠い記憶が蘇ってきます。
柱は家族の宝物、永久保存したいと思っています。

三世代住宅、新築十周年に思う

直 さんの投稿作品:

二世帯、三世代の一戸建て木造二階建住宅150平方米に、
家族六人が暮らしている。
縦割りに二世帯を分けた構造で、朝日のあたる東側に老夫婦、
午後の日差しがメインの西側に息子夫婦、
高2の長女と小5の長男が住んでいる。
両家族の仕切りは一階のドア一枚で、
鍵は息子たちの側からかけられる仕組みだ。
面積はほぼ半分ずつで、老夫婦優遇の間取りになっている。

今年の九月で丁度新築十周年。
その間の思いでは、いいこと悪いこといろいろだったが、
ぜったいに忘れられないのは東北大震災だ。
出身が福島の私は津波や地震の直接被害はもちろんだが、
その後の原発被害がもたらした地域崩壊を実感し、
三年経とうとする今でも絶望から立ち直れないでいる。

地震直後の三月下旬、アメリカニューヨークの近くに住む
娘のもとを夫婦で訪ねた。
日本よりも原発事故の怖さに敏感とされていることもあり、
東京、横浜も被爆の被害があるのではと心配する娘に、
元気な姿をみてもらうためでもあった。
「危険だだからこっちにしばらくいたら」という娘の言葉が実感されるほど、
東日本の惨状と事態の深刻さが、アメリカでは伝えられていたのだ。
事実翌月四月十日の予約済み帰国便は飛ばなくなった。
訪日をほとんどの人がキャンセルしたらしいのだ。

その後実家のあった福島のお墓参りには、数回いったが
現地ではさまざまな根拠のない風評被害が広がっていた。
福島ナンバーを見て立ち寄りを拒絶する店が県外であったとも聞いた。
そんな中うれしかったのは、福島の知人家族を撮った写真が
全国一のグランプリを獲得したこと。
福島米をおいしく食べているシーンだったのでなおさらだ。

新築十年の住宅の話に戻そう。
息子夫婦とはそれまで独立して生活していたが、
息子の希望もあり三世代同居の新生活を決心し、
我々老夫婦の土地建物を売却。
分譲地の購入と一戸建ての新築に踏み切った。
思い切った計画だったが家族全員の協力で完成にこぎつけることができた。
そのときの息子の一言
「玄関の外に将来車椅子用のスロープをつけよう」は死ぬまで忘れない。
私が両親の介護に十年近く関わってきたその背中を見ていて
自然に出た言葉だったらうれしい限りだ。

その当時小一の長女は高校ニ年、下の子は小五になった。
孫たちの健やかな成長が家族全員の願いであることに変わりはない。
家族の話題、できごと、関心のすべてが孫たちの将来像に収斂しているいまが
いちばんしあわせな時間かも知れない。
他から見ればうらやましい家族の姿に映っているだろうと思う。
ときには一緒に食事をし、記念の日には集まり、いたわりあって心をつなぐ。
そんな家族像を大切にして、孫たちが親になったときに
自然に家族愛が生まれるように願っている。
また、福島出身を誇りをもって語れるよう
何とか「うつくしまふくしま」が復活することを祈っている。

モンゴルのお父さんと娘たち

Daich さんの投稿作品:

2011年お盆休みに久しぶりにモンゴルの家へ帰りました。
両親は年を取り顔がシワシワになっていました。
何もかもが懐かしくて落ち着いた気持ちでした。
妹の娘達がいて、楽しそうに遊んでいました。
自分の気持ちが帰る場所こそ本当の家だねとおもいました。

待望の一戸建て

ぽん さんの投稿作品:

我が家の夫は転勤族です。結婚して5回引越ししました。
3人の子どもが生まれそれぞれ大きくなり、東京にマンションを買い、
とうとう夫は福岡に単身赴任することになりました。
私と子どもたちは夏休みに夫の単身赴任先に遊びに行きました。
そうしたらなんと夢見ている一戸建てでした。
「わ~一戸建てじゃん。すげ~」子どもたちはおおはしゃぎでした。
夫は久しぶりに家族に会えてうれしそうでした。
そして私たちは東京に帰ることになりました。
新幹線の駅のホームで見送る夫は少し疲れて
「私たちも年を取ったね」と言っているようでした。
いくら一戸建てでも仕事から帰っても誰もいません。
一人でお風呂を沸かして入り、朝は一人で起きて
「いってらっしゃい」と言ってくれる人はいません。
夫は「結構楽しんでいるよ」と空元気を出していましたが、つらかったでしょう。
幸い今は東京勤務となり家族一緒に暮らしています。
私は狭いマンションでも幸せだなと思います。

100人の手で蘇った築400年の古民家

風子 さんの投稿作品:

成田の市街地で自然食レストランをやっていましたが、
広い畑のある田舎に移転したいと
数年かけてお店にできるような古民家を探していました。

車で通りかかって偶然見つけた古民家に一目惚れ。
私がイメージしていた通りの古民家に出会うことができたのです。
築400年!しかも8年間空き家でかなり傷んでいました。
持ち主さんは親族会議の結果、
修復を条件に貸して下さることになりました。
予算もない私が一体どうやってこの修復すればいいのだろう?!
とても素人の日曜大工でやれるような状態ではありませんでした。
かと言ってプロに頼めるゆとりはありません。

私にはシングルマザーで店をやりながら子供を育ててきました。
日々のやりくりだけで精一杯だったので、
今までやっていたお店を後輩に譲渡することで修復費用を捻出することにしました。
ところが直前になってその後輩たちがやはりできないと辞退したのです。

入ってくるお金が急になくなり、ほとんど予算がない中で
古民家を修復することになりました。
一時はやはり無理なのではないか諦めようと思ったこともあります。
でも古民家に出会った瞬間、私はここでお店ができると確信したのです。
ならば絶対に方法があるはず。そう思っていろいろな方に相談しました。

一人の友達が長野に住むログビルダーを紹介してくれました。
その方は初めて会った私の話を聞いて
二つ返事で修復を引き受けて下さることになったのです。
ログハウスを何棟か手がけているとは言え、プロの大工さんではありません。
でも棟梁として関わり、時間がある時に泊まりがけで上京するので、
それに合わせて手伝ってくれる人を集めてほしいと言われました。

一人でも大工仕事に精通している人がいてくれたら何とかなるかもしれない。
その時ようやく一筋の光が見えました。
それから私のスィッチが入り、
ブログや店内の掲示板などで古民家修復の助っ人を募集したり、
店の在庫や器や本などを処分しながら少しずつお金を作ったりしました。

当然、予算がないので手伝ってくれる方もボランティアでお願いし、
お店を開放し寝る場所とお食事だけをご用意させていただくことにしました。
工期はわずか2ヶ月。
その間にそれまでやっていた店を閉め、自宅と店両方の引っ越しもしなければなりません。
怒濤のような日々が始まりました。
最初の1ヶ月は店の営業もあったので
仕事をしながら古民家に通ったり建築資材を買いに行ったり、
体がいくつあっても足りませんでした。

修復期間中、入れ替わり立ち替わりいろいろな方がお手伝いに来てくれました。
中には友達の友達の友達・・・全くお会いしたこともない方もいました。
茅ヶ崎からはるばる玄関前のアプローチを作りに来て下さった植木屋さんもいます。
もちろん初めてお会いする方でした。

「がんばっている女性がいると聞いたので真夏のクリスマスプレゼントをしようと思って」と
ユニックにユンボを乗せて庭にある梅やモミジや百日紅を移植し、
とても美しいアプローチを作って下さったのです。

あの年はとても暑い夏でした。
私は毎日煤とホコリと汗と泥で真っ黒になりながら修復作業を行い、
10時と3時のお茶とおやつ、お昼ご飯、泊まる方の朝と夜のご飯を作り、
毎日クタクタで体重は30年前の50キロに戻ったほどです。

でも暑い中、ボランティアの方たちが集まって下さることが嬉しくてありがたくて、
疲れたなんてとても言っていられませんでした。
それどころか修復の進行を我がことのように喜んで下さる方や
差し入れを持って来て応援して下さる方達に囲まれ、
何度感動の涙を流したことでしょう。

私のお店がここに完成するために皆さんが協力して下さっているのです。
修復期間中私が一番多く発した言葉は何よりも「ありがとうございます」でした。
自分の思い描いていた古民家を見つけたものの、
お金もなく修復の方法さえわからず途方に暮れていた私が、たくさんの人に囲まれ、
棟梁の指導によりインパクトを持って一人前に床板を貼ったりしながら
古民家が蘇るのを間近で見てきました。
床や天井や柱が少しずつ生まれ変わり、
手をかけた分だけ愛おしい場所に変わって行きました。

結局、2ヶ月間で延べ100人の方が修復を手伝って下さいました。
人生でこれほど忙しく充実していた時間はありません。
ボロボロだった古民家は見事に再生しレストランとして
無事にオープンすることができました。
夢が現実になるという経験を身をもってさせていただいたのです。
最初はお化け屋敷みたい?と敬遠されていましたが、
多くの人が関わる中でどんどん古民家の気配が変わり
今ではすっかりニコニコ顔で私たちを見守ってくれています。

やはりそこに集まる人たちが幸せでいたら家も喜んでくれるのだと思います。
おかげさまという感謝の気持ちを忘れることなく
この場所に新たな時間を刻んでいこうと思っています。

父と本

まっかなりんご さんの投稿作品:

小さな頃から何度も引っ越しをした。
小さなアパートから広い家や 大都会から自然がいっぱいのところ
家を取り巻く環境はその時々で変化したが 一つだけ変わらないことがあった
どの家にも本があちこちにあった

何度も転勤をした父がマイホームを建てたとき 壁一面が本棚の家が作りたいといっていた。
小学6年生だった私は 雑誌にのっているような 外国風のおしゃれな家が良かった

出来上がった家は 思いのほか おしゃれで子供部屋も
ダイニングもみんなに自慢したい気持ちになる素敵な家だった
ただ リビングの父の席の後ろは本だらけ そしていえのあちこちには本棚があった

私も大人になり 一人暮らしも経験し 今の主人を父に紹介したとき
父はとても嬉しそうだった
彼は本が好きだったのだ

結婚し 子どもができ 気が付けば私の家は 主人と私
そして子どもたちの大好きな本で囲まれていた
子どもの友達が来れば 本がいっぱいだね と目を丸くする

なんだ 結局は 私は父と同じ家に住みたかったんだ

母と子

HARU さんの投稿作品:

やっと授かった、我が子。子育て毎日大変ですが、幸せ一杯です。

お手伝い大好き。

たえぶぶ さんの投稿作品:

家の中でも娘(2歳)が好きな場所は「台所」
キッチンに立って食事の支度を手伝ってくれたり、
洗い物をしてくれます。
そんな娘を我が家では「小さな小さなシェフ」
呼んでます。

キッチン

たろちん さんの投稿作品:

今夜は何を話しているのだろう。母と娘の語らいの場所、キッチン。
お米を研いでいる娘に話しかけてる妻は、何やら嬉しそう。
何の話で盛り上がっているのだろう。
妻へ娘へ。
毎日、心のこもった美味しい食事をありがとう。そして、君たちの笑顔をありがとう。
すっごい、いい事なんか無い毎日の暮しだけど、
こんなささやかな笑顔に癒され、頑張る力を与えてもらっている幸せな毎日です。
これからも、小さな幸せが一杯詰まった家にして行こう。みんなで!

アトリエのある家

サカシタヤマト さんの投稿作品:

僕の父さんは絵描きさん。
アトリエはおうちの中だから、父さんはずっとウチで仕事をする。
仕事をしている時の父さんは、ちょっと怖そうだけど、なんだかカッコいい。

もちろん、僕も絵が大好きだ。
僕が父さんに「絵を教えて!」って言うと、
父さんはめんどくさそうな顔をしながら僕のそばに座ってくれる。
学校の先生みたいにちゃんと教えてくれたらいいのに、
父さんはいつも僕に難しいことばかり言う。
僕はただ絵の描き方を教えてほしいだけなのに。
僕が「この絵どう!上手に描けたでしょ」って聞いても、「ああ」って答えるだけ。

でもね、僕は知ってるよ。僕が絵を描いているときの父さんの優しい笑顔。
いつか僕も父さんみたいに家で絵を描く仕事がしたいな。
ありがとう、父さん!

母娘

又三郎 さんの投稿作品:

うちの母と娘は大の仲良し。
娘はもう、中学校に行くようになったのに、
今夜も自分の部屋に行かないで、
お母さんの布団に潜り込んで何やら遊んでいます(*^_^*)

娘に『ここにいたいんだろう。今夜も一緒に寝ていいよ』と。
狭い布団に三人で寝るのは、少し窮屈だけど、
こんなふうにいつまでも家族仲良く入れたらいいね。
そんなことを願いつつ、いつの間にか静かな眠りに入っています。
明日もいい日が来ますように。

散髪

たろりん さんの投稿作品:

群馬の山奥で一人暮らしをしているおじいちゃん。
何年ぶりかで信州に遊びに来てくれました。孫達に会いに。
年はしてるけど、おしゃれなおじいちゃん。
今日はピンクのポロシャツを着てお出かけの準備。
そんな、おじいちゃんに、孫娘が髪の毛を整えてあげています。
何やら嬉しそう。。。

翌年、おじいちゃん急な病気で亡くなりました。みんな泣きました。
でも、沢山の楽しい思い出忘れないよう、生を受けたことに感謝して、
これから家族皆で力を合わせて、『わたしの家』を造っていきます。
天国のおじいちゃん、ずっと見守っていて下さい。

金婚式の夜

タロー さんの投稿作品:

今日は両親の金婚式の夜です。
子供や孫が集まって、おじちゃん、おばあちゃんにケーキのプレゼント。
皆に散々冷やかされて、二人でケーキに入刀を。。。
照れくさそうな、おじいちゃん、とても嬉しそうなおばあちゃん。

おじいちゃん、おばあちゃん、素晴らしい家族を残してくれてありがとう。
これから僕たちがバトンを受け継ぎます。
いつまでも元気で長生きして下さい。
家族みんなから『金婚式おめでとう!』心より。

きっちん

ふうた さんの投稿作品:

我が家のキッチンは、いつも母と娘の戦場です(笑)
今夜の夕食はカキフライ。また娘のイタズラが始まりました。
一体どんなフライが出来るのだろう。。。(不安)
でも、家族の幸せはやはり何と言っても『笑顔』です。
こんな微笑まし母と娘の光景が、いつまでも続きますようにと、
静かに願うばかりです。
お腹すいた~!(*^_^*)

兄妹

ふうた さんの投稿作品:

いつも喧嘩ばかりの兄と妹。家族皆がいつも手を焼いていた。
今日は毎月恒例の兄の散髪の日。
散髪をしていた私に電話が来てしまい、しばらくして戻ってみると、
見よう見まねで妹が散髪を代わっていた。
ちょっと驚いたけど、その光景が嬉しくて、
慌ててカメラをとりに行って、しばらく遠くから見つめていた。
この先の人生は大変なことも多いだろうけど、いつも二人仲良く、
力を合わせて生き抜いていって欲しい。
今日の二人の姿を、そんな未来の姿に当てはめていた。

息子との生活

K.KAWA さんの投稿作品:

息子が誕生し、里帰り先から初めて自宅に来た時、
今までの生活がガラリと変わり、子ども中心になりました。
大変なこともありますが、息子と一緒に生活していく楽しさ・幸せさは一入です。
最初の1枚目が、息子が初めて自宅に帰って来た時に撮影した写真、
2枚目は、初めてのお正月を迎えた時の写真(ヘビ-2013ですが・・)、
3枚目は1歳の誕生日を迎えた時の写真です。
この家で、我が子は成長していきます。
そのような人生の転機となった瞬間が詰まった空間です。

ロッ君のおうち

三郎 さんの投稿作品:

「アッ、ロッ君がいる」
二階のベランダで、久し振りに訪れた孫のミウが歓声を上げる。
雨が上がり、雲一つない夜空に無数の星達。
「どれがロッ君かな?」と問う私にミウが両腕を大きく広げる。
「ぜーんぶ、ロッ君」
人間の年齢に換算すれば白寿超えで大往生した我が家の愛犬ロッキー。
「ロッ君はお星様になったんだよ」とその死を伝えたとき、
三歳になったばかりの孫は不得要領な顔をしていたのだが、
ちゃんと覚えていたのだ。

マンションから戸建てに引っ越したとき、
何よりも嬉しかったのは犬を飼えることだった。
血統書付きのプードルを買うつもりでいたある日、
息子の彼女が真っ白な子犬を連れてきた。
ポインターとラブラドールレトリバーの雑種だという。
それを聞いて少々がっかりしたが、
将来画家になりたいという美少女の凛とした瞳に負けた私。

息子がロッキーと名づけたその子犬は
新築したばかりの家の下駄箱をかじって台無しにし、
玄関ドアに無数の引っ掻き傷をつくり、
まだい草の香りの残る畳を小便臭くした。
「あーあー、俺の家が」と、そのつど情けない気持ちでいっぱいになった私。

けれど、ロッキーのお陰で息子は難しい思春期を乗り切った。
高校生の頃、登校拒否を起こし、
まるでフランダースの犬のネロとパトラッシュのように
リビングでロッキーと一緒に一つ毛布にくるまって寝ていた息子。

その息子が結婚し、産まれたミウが我が家を
「ロッ君のおうち」と呼ぶようになった。
なぜ「ジイジのおうち」でないのか、
ロッキーが近づくと大慌てで逃げ出すばかりで
そんなにロッキーを可愛がっているわけでもないのにと、
爺婆は顔を見合わせたものだが――。

相棒の帰りを待っていたかのように、
息子の掌から末期の水を飲んで逝ってしまった老犬。
「重さで料金が違うんですよ」と言われて、
火葬場で体重を測ったら、十一キロしかなかった。
「三十キロを切ったことがないのに」と、号泣する妻。
火葬場から息子にメールを送る。
『焼きあがった骨を指さしながら、
「ほら、この喉骨、観音様が合掌している姿に見えるでしょう。
これは珍しいことで、飼い主によほど愛された印なんですよ」と
火葬場の人が教えてくれたよ』
その返信メール。
『長い間、手厚い介護、ありがとう!』
久し振りに聞く息子の感謝の言葉だった。

この家はもちろん食う、寝るためだけの単なる箱ではない。
私にとっては退職金をはたいての汗と涙の結晶、
嵐をしのぐための港、荒海を航海するための補給基地。
息子にとっては耳の垂れた雑種犬ロッキーと
青春時代を過ごした癒しの場所。
そして、ロッキー亡き今、孫にとっては
「たくさんのロッ君がキラキラおうちを見下ろしてるね」
――そんな家だ。

家が与えてくれた家族

ゆうゆ さんの投稿作品:

私の家は、私に家族を与えてくれた。
私が結婚したのは、29歳の時だった。
結婚したての私は二人でいろいろなことにチャレンジしたくて、
子どものことは考えていなかった。
結婚して3年がたち、私の実家の近くに引っ越すことになった。
子どもができてもサポートしてもらえる環境が整い、
子どもがほしいなあと考えるようになった。
しかし、できる気配がなかった。
自分の年齢も上がっていき不安になった私は、産婦人科を受診した。

検査をしてもこれといって原因も見つからなかったが、治療を始めた。
ホルモン剤を服用したり、定期的に通院することにした。
しかし、治療をしながらもはじめのうちは、そのうちできるだろうと楽観していた。
治療をはじめて一年ほどたったとき、子どもを授かった。
とてもうれしかった。
女性として、当たり前のことができた喜びであった。
しかし、喜びもつかの間で、流産した。

このころから私は、女性なら子どもができるという
当たり前のことが自分にできないことで不安になっていった。
流産後、しばらくして、また、治療を始めたが
最初のころと違って、私には子どもができないのではないかという
不安な思いを背負った治療となった。
夫は私が精神的に追い込まれていることに気づいていたのかもしれない。
そのころから気分転換に住宅展示場をめぐるようになった。
夫は家づくりには興味がなかったようだが、
私が見に行こうと誘うと、付き合ってくれた。
そして、夫は家を作ることを承諾してくれた。

家は一生に一度の大きな買い物である。
家を作ることになった私たちは、土地の購入や住宅会社をどこにするか。
また、設計や設備に関することなど
いろいろなことを吟味したり決断したりしていかなくてはいけなかった。
大きな決断をする時は緊張したが、キッチンをどうするか、
間取りをどうするかなどを考えるのはとても楽しい事だった。

不妊の治療は続けていたが、家を作るための準備をしていく中で、
楽しい夢を形にしていく作業があったおかげか、
生活の中での会話が楽しいものになっていた。

そして、家づくりの途中で新たな命を授かった。
一回目に流産の経験がある私は、妊娠してからは住宅会社の方に多くの部分を任せて、
今度こそおなかの中で子どもが育ってくれることを願いながら過ごした。
家が形になっていく中で、おなかの中の子どもも大きくなっていった。
そして、無事出産することができた。

私たち第一子目は家と同じ年である。
治療に多くの気持ちを傾けていた私が、
家を作ることをきっかけにして家づくりに気持ちが向き、精神的にゆとりができた。
おかげで子どもが授かったのだと夫と話している。
家づくりに出会わなければ、私たちに子どもはできていたか分からない。
この家は、私に家族を与えてくれた。

今6年が過ぎ、家族が4人になった。
二つの子ども部屋も、二人の子どもに分けてあげることができそうだ。
これからも、上の子どもの誕生日を迎えるたびに、
家づくりの時の事を思い出すであろう。
そして、家族の思い出がこの家で増えていくであろう。

帰る場所があるってありがたいな。。。

noritake さんの投稿作品:

私は現在、実家から車で約1時間半離れた場所に
妻、子ども3人と住んでおります。
周りは住宅街と商業施設等で
暮らすには何不自由ない場所ではありますが、
自然豊かとはとても言えない場所です。

さて、実家はと言いますと、
遠くには山々、近くには鮭鮎が遡上するような清流が流れ、
そして綺麗な海、自然豊かで
今私達が住む環境にはないものが実家にはあります。

そんな田舎に実家はあり、
毎週週末になるとあたりまえのように
実家の「じじ」「ばば」の元へ子どもを連れて帰るのですが、
何もすることがなくても何故か
実家で過ごす休日は心が癒され、
休日をゆっくり過ごしたという実感がわき
週明けからの仕事への活力を充電して帰ってくることができます。
子どもたちも、大きな居間で相撲をとったり、
かくれんぼや鬼ごっこなど、昔ながらの遊びを楽しみ
ゲームなんかなくても身体全部を使って遊んでくれます。

そんな当たり前のように過ごす実家、
ふと考えてみると田舎に実家があることは
非常にありがたいことだと感じます。
離れて暮らす家族が集って賑やかに過ごすことのできる実家、
縁側で子どもたちが走り回って遊べる実家、
物静けさの中に四季折々の自然の音や窓を開けると
自然の香りを感じる事ができる実家、
そんな田舎の実家が大好きですし、
これからも実家を大切にそして、
私の子どもたちに残していきたいなと思います。

そんな実家の私の部屋で子ども達と遊んでいた思い出の1枚です。

猫に占領された家

tomoko さんの投稿作品:

「まったく、家が猫に占領されちゃってるわ」と70になった母は笑う。

一人暮らし中に飼い始めた猫3匹を連れて、
私が両親の住む実家に戻ったのは2年前。
父はともかく、母は昔から猫嫌いだった。
「猫はあんたの部屋の中だけで飼って!」と言っていた。

一週間が経ち、我が家はボロボロになった。
壁紙はあちこち爪とぎの跡。
網戸は爪で破かれた跡。
カーペットは猫が吐いたゲーの跡。
床は毛だらけ。

毎日必ず掃除機をかけるきれい好きの母は、
「あーあーあー」とため息をつきながらハタキをかけていた。

でも、母が猫たちに首ったけになるのに時間はかからなかった。
いつの間にやら母は「かわいいね、かわいいね」と
猫に話しかけるようになり、
膝にのせて「よしよし」と撫でるようになり、
ハタキにじゃれついてくる猫を「ほれほれ」とあやすようになった。

「まさかこの私が猫と暮らすことになるとはねぇ」
しみじみと母が呟く。
その目には3匹の猫が映り、口もとは笑みが浮かぶ。

最近じゃ、家族の会話の9割は猫のことだ。
今までいったい何を話していたんだろう?
そう疑問に思うくらい、私たちは猫の話しかしていない。

今日もリビングのソファに、3匹が集まって気持ちよさそうに眠っている。
母も父も私も、ソファに座れず、しょうがなく地べたや椅子に腰を下ろす。
家が猫に占領されている―。それはあながち間違いではないようだ。

もうすぐ、私は結婚する。
猫は3匹とも連れていくつもりだ。

私と猫がいなくなったこの家で、きっと母は父とともに笑うだろう。
「まったく、汚すだけ汚して出て行っちゃったわ」

My heart、My home

福井淑美 さんの投稿作品:

42年間会社勤めをした父が定年退職。
本当に、本当に長い間、家族のために有難う。

ストレスで500円玉はげができても、
文句言わず会社に行き続けたお父さん。
突然一人で海外に高校留学するといっても、
反対せずに見送ってくれたお父さん。
定時帰宅を破り激怒する母に対し
常に優しかったお父さん。
子供が成長し、「おやじ!」「すみちゃん」「すみぴー」と呼ばれても
いつも穏やかなお父さん。

そんな、お父さんが退職祝いに切実に願ったものがある。
温泉旅行でもない。世界旅行でもない。贅沢品でもない。
それは、田舎暮らし。

小さな家と庭があればいい。
家庭菜園をして、釣りをして過ごしたい。
お母さんと仲良く平凡な生活を送りたい。
それがお父さんの願いであり夢。

42年間も働き続けたお父さんの夢。
家族みんなで応援することにした。田舎に家を探した。
お父さんが家庭菜園できる程度の庭がある家。
毎日朝起きて、ワクワクするような、日当たりのいい家。
吸い込む空気からエネルギーをもらえるような環境にある家。
もちろん、お母さんが、買い物に出れるよう、
交通機関があるところにある家。

家族みんなで応援して叶えた、お父さんの夢。
家と庭は小さいけれど、お父さんのお城。夢のお城。

世界どこにいても、何をしていても、家族は一つ。永遠に変わらない。
My heart、My home。私の心はいつも家にある。

祖父とみかん

紫野 さんの投稿作品:

祖父はあまり話さない人だった。
同じ家に住んでいたけれど、ほとんど奥の部屋にこもっていて、
ごはんのとき以外は顔を合わせることもあまりなかった。

小さい頃はよく叱られた。
顔を真っ赤にして、鬼のような形相で。
犬もよく叩かれていた。
いつも偉そうで、祖母がいないと何もできない。
そんな祖父が苦手で、どちらかといえば嫌いだった。
できるだけ近づかないようにしていたから、
私は祖父のことをあまり知らない。

祖父は釣りが好きだった。
引っ越す前は川の真ん前に住んでいたから、いつも釣りに行っていた。
大雨のあと、濁流に向かって釣竿を垂らしていたこともある。
釣れるはずもないのに。
長年住んだ家が立ち退きになって、川から遠いところに引っ越して、
今から思えば祖父は新しい家があまり好きじゃなかったかもしれない。
父の自慢の庭があったけれど、祖父が庭にいるのはほとんど見たことがない。

あとは、ルービックキューブが得意。
どんなに壊しても、あっという間に元通りに直してしまう。
昔流行ったからといえばそれまでだが、幼い私から見たらまるで手品のようだった。
こわくて苦手な祖父だったが、そこは本当に尊敬していた。
大袈裟にいえば、私と祖父をつなぐものはルービックキューブくらいだった。
何度も何度も壊しては直してもらった。

好きな食べ物は知らない。
それくらい、希薄な関係だったのだ。
少なくとも、果物はあまり好きじゃなかったと思う。

祖父は、私が高校2年のときに亡くなった。
突然だった。
もともと心臓に持病があって、真夜中に発作を起こして、
救急車で運ばれた。
明け方の病院で、ドラマのように心電図が0になって、
電気ショックで跳ね上がるシーンを見ていた。
ものごころついてから、「イキテイナイヒト」を見たのは、それが初めてだった。
最後に撫でてあげて、と言われたけれど、
怖くて怖くて、できなかった。

自宅でお通夜とお葬式をした。
お葬式のとき、祭壇の前で
お別れの手紙を読んであげてと頼まれ、私はとても困った。
祖父のことを、ほとんど知らないから。
ルービックキューブのエピソードを入れて、手紙を書き上げた。
読みながら涙が出た。
寂しい、というより、これくらいしか言えなくてごめんねって思っていた。
みんなは私の手紙でもらい泣きをしていたけれど、
きっと本当のことは知らない。

祖父とお別れをして、親族が集まって話をしているとき、
祖父は死期を悟っていたのかもしれないと祖母が言った。
あれだけ引きこもりで、友人づきあいもほとんどしてこなかった祖父は、
死ぬ前に知り合いに会いに行っていたらしい。
それから、今まで渡したってろくに食べなかった庭のみかんを、
自分から採ってきて食べたらしい。

偶然かもしれない。
でもそれを聞いたとき、今までで一番、泣いた。
父の自慢の庭の片隅で、祖母が丹精込めて育てたみかんの樹。
そのみかんを食べてから逝ったことに、私は泣いた。

みかんの樹があるの、知ってたんだ。
そんなに好きでもないくせに、食べたんだ。

祖父はちゃんとみんなのことを見ていたのかもしれない。
怒ってばかりで、引きこもって、家族に興味があるように思えなかった。
けど。

今でもみかんの樹を見ると、祖父を想う。

私は結婚して、家を出た。
今はアパート暮らしだけど、もうすぐ家を建てる。
できれば、小さくてもいいから庭がほしい。
何か植えて、育てたい。
みかんの樹がいいな。

我が家の光

tomo さんの投稿作品:

今までは2人暮らしが当たり前だった、我が家。
そんな「家」に、新たな光が舞い込む。
いつしかその光が当たり前のものとなり、
今ではすっかり3人暮らしの家に。
家族、ライフスタイルにあわせて、その都度変化してきた我が家。
これからどんな風に、変わっていくのだろう。

おじいちゃんといっしょ

コメット さんの投稿作品:

姪っ子の1歳の誕生日の時の写真です。
誕生日の飾りに興奮している姪っ子です。

母の手料理

ケン さんの投稿作品:

たまに実家に帰ると、母が手料理を作ってくれる。
母は、甲状腺の病で、体が震えて思うように動けない。
薬が効いている間だけ、どうにか動作が可能になる。

暗い室内に外光が入り綺麗だった。
私が17歳から30歳まで過ごした実家。
台所にはいろんな調味料や
使っているのかいないのか分からない
様々なものが混在していた。

庭の植物も無造作に伸びきっていた。
決して綺麗に片付いているとは言えない実家である。

いろいろな人生があり、いろいろな家がある。
私の実家でもいろんなことがあった。
決して楽しい思い出だけではない。
それでも家は私たち家族の生活を温かく包んでくれた。
雑草がいっぽん一本伸びるように、
何に使うのかわからない雑貨がひとつ一つ増えるように、
私たち家族の思い出も淡々と積もっていった。

学生の頃、全く料理の出来なかった私。
でも、今ではすっかり料理の腕前が上がった。
今では、私がたまに実家に帰って手料理をつくる。
「今日は、僕が夕飯をつくるよ。」と言っても、
母は「調子がいいから。」と言って
いわしの南蛮漬けをつくってくれた。
あと何回、母の手料理を食べることができるのだろか。

老いた母の姿を見ながら、私はシャッターを切り続けた。

山の上の家

derapan さんの投稿作品:

築68年の実家には
92才の父、90才の母が二人だけで住んでいます。

山の上にある家なので村人も少なく、
生活に変化がありません。
楽しみといえばテレビをみたり、
野鳥とふれあったりするぐらいのものです。

それでも苦しい時、自分を取り戻したい時に
帰ることのできる家がそこにあるのは
私にとってありがたいことなのです。

あたたかい家族

やっぺ さんの投稿作品:

お正月に実家に帰省。
埼玉と新潟という距離のためなかなか会えず。
今年はゆっくり実家で過ごしました。
孫が大好きな祖父母と毎晩たくさん遊びました。
祖父は、お馬さんになり孫を乗せて嬉しそう。
祖母は、孫を抱っこしつつお馬さんにつきあいこの笑顔。
祖父に孫にみんな笑顔。やっぱり笑顔はいい。
そして、家族は一緒にいて落ち着く。
そんなすてきな時間を過ごしました。

我が家に産まれた小さな光

モカ さんの投稿作品:

独身の時に、思い切って購入した我が家。
1人での生活が続いている中で出会った今の嫁。

出会ってから3年で結婚。
その1年後に妊娠が判明しました。

妊娠中は、悪阻がひどく苦労の連続の日々。
妊娠後期には、切迫早産の可能性があるという診断を受け、
絶対安静の生活を起こる日々。

親になるための試練と、二人で力を合わせて乗り切ろうと約束をしました。

そして出産当日。
初めての出産で、不安の中で陣痛が始まりました。

この時ほど、自分自身の無力さを感じたことはありません。
私ができることは、背中を擦り側にいることしかできない・・・
どんなに苦しんでいても、「頑張って、、」と声をかけるだけ。

そして産まれてきた我が息子。

この日のことは、絶対に忘れることはないです。

思い切って購入を決めたマイホーム。

1人で暮らし始めた家。
結婚をして二人となりました。

そして、授かった新しい命。

今では家族が3人となり、賑やかな日々を送っています。

今後も私達家族を暖かく見守っていてください。

家族

JYUNYA さんの投稿作品:

自分が産まれた頃から住み続けた家

自分が産まれた時から助けられてる家族

自分が大きくなるごとに家は古くなり

自分が大きくなるごとに家族は歳をとった

その繰り返しの中で自分は見守られてきた

その日常的な暮らしをさせてくれたこの家は、数日後崩してなくなる

『ありがとう、わたしの家』

三代のDNA

頑爺 さんの投稿作品:

「ねえ、よし君、娘を熨斗にくるんでやるからもっていく?・・」
「えっ!・・・・」よし君はキョトンとして私の方を見た。

よし君(宣文=よしぶみ)というのは、娘の彼氏。
娘は短大をでて保育士の資格を取って公務員試験に受かり、
市の保育所に勤めて3年目の23歳のときに、
そこの先輩女性保育士から
「ねえ、今度合コンしてみない」と、突然言われたらしい。

そこで出会ったのが、なんと
その先輩女性保育士の長男、25歳のよし君だった。
二人は意気投合し、二年の付き合いをへて、去年十二月結婚した。

数回我が家に連れてきて、好青年と見定め、
書き出しのような言葉になった。

結婚式当日の親族紹介の場面で「娘の父の・・・」というところを
「娘の長男の父の・・・」と言ってしまったらしく、
隣の女房にモーニングの裾を引っ張られた。
28歳の長男、24歳の次男も目を白黒させていたらしい。
後で女房から
「娘の長男の父だったら、娘は子持ちになってしまって、
しかもその子の父親があなたになって、それこそ近親相姦よ!
よし君も笑いを必死にこらえていたわよ」と。
よく聞いたら、ちょっと冷や汗もんだった。列席者は、微苦笑。

さて式ではキリスト教会式で赤い絨毯を娘と歩くのだが、
予行練習では上手にできたのに、いざ本番では、
長いドレスにひっかかりつまづいてしまった。
列席者の「あっ!危ない!」と言う声が
大きく伝わってきたが、事なきを得た。
「いい思い出になるわ!」と、勝手に思って居直った・・・

そして、自分では決して泣かないと思っていたのだが、
讃美歌の『祈祷』の歌詞
「い~~つくしみふか~~き、と~もなるイエスは・・・♪」と
聞こえた瞬間、走馬灯のように、
ありとあらゆる思い出が噴き出してきて、
山本リンダではないが、涙がでてきてどうにも止まらなくなった。
その思い出は、結婚してから女房が家に来てくれて、
両親の面倒を見ながら、三人の子育てを必死にしている姿やら、
子供たちの幼稚園やら小学校の運動会やら遠足、
受験の合格シーンやらが浮かぶのですが、
なぜか我が家の玄関からの〃明るい元気な声〃のイメージで
始まるのだった。「行ってきま~~す♪」「ただいま~~♪」

その後、老人施設で働いているよし君の夜勤のとき、
二人とも決まって我が家で夕食をとり、娘はよし君を送りだし、
翌朝娘は職場に出勤という生活が一週間に一回は続いていますが、
そのときは必ず、娘は自分の部屋で寝ている。
女房が、「そのままにしばらくしておきましょうよ・・・
ここは娘の思い出が煮詰まっているところだから」と。
だから部屋は、ベッドも机も幼い時から使ったそのまま
(もっともベッドは一度替えたが)。

今年の11月で、結婚して三十年になりますが、
女房も私も晩婚だったので、
私は還暦を3年前、女房は今年迎えます。

この女房の実家は山梨なのだが、
毎年毎年盆暮れ正月に帰るときは、きまって
自分の部屋のベッドで寝ている。
「なんだか、ここのベッドにこうして寝ていると、
いろいろなことが思い出されて、落ち着くのよ。
だから娘の部屋もそうしてあげてるの。」と。

妻の実家の母親は8年前に80歳で亡くなったが、
海軍将校の娘だったので、戦前では珍しく、
戦後もずっとベッドの生活だったという。
その母が「そのままにしておくから・・・」と。

やっぱり人間は、自分が生まれ育った家は、
思い出の中心を占めていて〃三つ子の魂百までも〃・・・
ということなんだろうけど、このことは
母、娘、孫娘という三代のDNAとして
しっかり刻みついているのかもしれない。

わたしの家ぞく

はっぴーまま さんの投稿作品:

3年前に購入したマイホーム。
娘の成長記録はこの家にたくさんつまっている。
はじめてベランダに積もった雪で遊んだ日。
はじめてお弁当を作って食べた日。
はじめてマフィン作りをした日。

これからもたくさん思い出が増えていく。
いつか娘たちがお嫁に行っても、
今度はまた新しい家族を連れて帰ってこれるような家であり続けてほしい。
家族みんなの笑顔が生まれるこの家が大好き。
わりがとう、わたしたちのお家さん。

快適な生活へ

ムーミンママ さんの投稿作品:

旧宅は寒かった。
子供の授乳に起きる度に電気ストーブを付けた。
何たって、私の実家は雪国。
氷点下の世界だ。

だけど、離れてみれば旧宅にも、懐かしい思い出がいっぱいだった。
聞き慣れたどこか心地よい用水路の音。
夏の夜、田んぼから聞こえてくる蛙の合唱。

長年、一緒に年を重ねた旧宅にさよならをして
4年前、新たに土地を買い新しい家が建ちました。
何より一年中温度を一定に保てるようになりとても快適に
暮らせるようになったのが一番だが、
夏は外でバーベキュー、野菜のもぎ取り、海やプール遊び。
冬はお餅つきや雪遊び。

子供や孫達まで、大家族が集まる「理想の家」になりました。
これからも、楽しい思い出を共に刻んでいきたいです。

家族写真

こうちゃん さんの投稿作品:

3年前に撮った家族写真。

昨年、ここに写っている2匹の愛犬が立て続けに他界しました。

実はあまり仲の良くなかったこの愛犬。

今となっては、家族にとって本当に貴重な一枚となりました。

おうちに帰るもん

おませちゃん さんの投稿作品:

私は田んぼに囲まれた、田舎の一軒家に生まれた。
大好きな両親と、優しい祖父母と一緒に暮らしていた。

我が家は、父が若くして頑張って建てた自慢の家だ。
幼かったものの、陽の当たる縁側で祖母とお手玉をしたこと、
毎日のように祖父の布団に潜りこんで一緒に眠ったこと、
今でも鮮明に覚えている。

私が四歳になった頃、父の転勤が決まった。
父にとっても、努力してやっと建てたマイホーム。
悔しかったと思うが、仕事を断ることは出来ず祖父母に家を任せ、
私達三人は新しい地で心機一転アパート暮らしを始めることとなった。

新しいアパートも悪くはない。
憧れていたピアノ教室がすぐ隣で、真ん前には大きな公園。
今までの田舎は友達も少なかったが、
数え切れないほど沢山の友達もできた。

しかし、夜になって布団に入ると思い出す祖父母の優しい笑顔。
大好きだった私の家。
窓から見えた青青とした田んぼ。

『おうちに帰りたい…』
忙しそうな両親には言えなかったが、思い出してはひとりでこっそり泣いた。

気付いたときには、私の思いは
止めることができないほど大きくなってしまっていた。

「おうちに帰るもん」
早朝、母の目を盗んでこっそり家を抜け出した。
そう、祖父母の待つ、本当のおうちに帰るために。

同じ県内だが、アパートと我が家は、車でもかなりの距離があった。
もちろん歩いて行けるわけがない。
しかし幼い私にはそんなことを考える術もなく、
ポケットにチョコレートを詰め込み、
おぼろげに覚えている車で通ったであろう道を、ひたすら歩いた。

暑い夏だった。
ポケットのチョコレートはドロドロに溶けて、
喉が渇いても飲み物を飲むこともできない。
泣くのを必至に堪えて、
ただひたすらに祖父母の顔と田んぼの中に佇む
大好きなおうちをを思い浮かべながら歩いていた。

二時間ほど歩いたところで、私は見知らぬおじさんに保護された。
幼い女の子が一人で歩いていることを不審に思い、
交番へ連れて行ってくれたのだ。

その間にも両親は近所の方々と一緒に必至に捜索してくれたと
後から聞かされた。
本当に迷惑を掛けてしまい申し訳なかったが、
親切なおじさんのお陰で私は無事、家族の元へ帰ることができた。

数年経ち、小学生になった私は、
大好きな夢にまでみた「おうち」に戻った。
祖母に抱かれた縁側はそのままに、
雪見障子からは少し大きくなった庭の木々や、
当時のままの青青と広がる田が見えた。

お布団の中で昔話を聞かせてくれた祖父は、もういない。
代わりに、祖父が私の成長を楽しみに、
背丈を測ってつけてくれていた柱キズが「おかえり」と迎えてくれた。

かくれんぼに使った押入れ、上っては駄目よと怒られていた階段、
祖母の作るちらし寿司を待ちきれずこっそり味見していた台所、
全てが懐かしく、大好きな「おうち」で過ごせる毎日が楽しくて仕方なかった。

そんな思い出いっぱいの我が家も、今年はリフォームを予定している。
小さい頃から大切にしている宝物を失うような、何とも言えない空虚感。
我が家との別れは寂しいが、
高齢になった父と母をこれからも見守ってもらうための必要な決断だった。

思い出の柱や障子の桟、再利用できるものは
そのまま大切に使ってもらおうと家族みんなで決めた。
私達と時を刻んだ柱も、姿を変え、
久しぶりに新たな一本線が加わる日を楽しみに待ってくれているように思う。

「ありがとう、私の『おうち』私の『家族』」

息子とともに

あるぱぱ さんの投稿作品:

写真に写っている息子が生まれる年に、
両親がもともと住んでいて空き家になっていた家に越してきました。
それまではマンション暮らしで、
騒音など周りを気にした生活を送っていました。

ここは最寄駅まで歩いていくのは困難な場所で、
逆を言えば、隣への騒音もマンションほど気にしなくても良く、
何かあってもお互い様、という感じの街です。
息子の成長といつも一緒にいてくれる家です。

築30年近く経ち、雨漏りなども経験しましたが、
住めば都とは良く言ったものです。
おかげで息子ものびのびと育ち、いや、育ちすぎ、
私と伴にダイエットに励んでいます。
2人でダンスしても階下に住民もいないため、
気にせず運動もできます。なかなか痩せませんが。

今回はモノクロフィルムにて撮影、
自分で現像したものをスキャンしたものを投稿します。
古くても良いものは良い、我が家の雰囲気にぴったりです。

背比べ

高島桃香 さんの投稿作品:

私の家族はみんな背が低い。お父さんも、お母さんも、私も。
みんな背が高くなりたいなあ、っていつも思ってる。
4つ下の弟は、「俺は絶対大きくなってやる!」っていつも言ってた。

いつしか成長が分かるように、
思い出す度に壁に背中をつけて測るようにしていた。
メジャーを持ったお母さんが椅子に乗って測り、
その記録を私が身長に合わせて壁にセロファンテープを貼り、
日付と名前を書く。

その様子を優しくお父さんが見守る。
ベタベタベタベタ、白い壁にセロファンテープを貼って。
家の色んな壁にセロファンテープが剥がれた跡がついている。

弟が中学生になって、私とお母さんの身長を越した。
とても悔しかったけど、家族みんなで喜んだ。

弟が中学三年生になって、お父さんの身長を越した。
お父さんが一番悔しそうで嬉しそうな複雑な顔をしていた。

弟は今年、高校生になる。
家族の中でひとりだけ背の高い弟。
背の低いお父さん、お母さんから産まれたとは思えないよ。
私たち、家族の誇りだ。

今日も思い出しては弟が壁に背中をくっつけて、
身長をみんなで測る。
あの時間は私たち家族にとって大切な時間だ。
家中に、その時間の跡がたくさん残っている。

最高の家族

こゆき さんの投稿作品:

私の家は代々続く畜産農家です。
たくさんの牛に囲まれてハイジのような生活と言えば、よく聞こえますが
現実は台風の日も
牛たちの草を集めに…病気で熱がある日も牛の世話…。
本当に大変な毎日です。
だけど、その中で家族が一丸となってがんばってきたから、
絆が生まれお互いに支え合い、毎日笑顔で頑張って来たと思います。
牛は家族です。
そして私たち家族は最高の家族です♪

実家

ランタロ さんの投稿作品:

昨年 12月17日
母が 102才と27日 逝ってしまいました
もう 逢えない辛さ 何かにつけて思い出してばかりの日々を過ごしています

妹家族と暮らしていました
或る日 施設に入れるからね 1本の電話に 飛んで行きました
妹には孫2人 一緒に暮らしては居ないけれど この新しい命が大切だからという理由でした
入所の日にも 複雑な気持ちいっぱいで送りました

北海道へ 連れて行ってよ
この 言葉を幾度も聞き 心は動くけれど 行動に移せなかった
とても とても 後悔しています
実家とは 全く思いませんでしたが 母が元気だから 妹家に通いました

骨折をした 付き添いをしてくれ
元気だった頃の母が ベットから起き出す為 靴を履いたまま眠る
少し眠ってくださいと ナース室に車椅子がポツン
覗いた時 あの 寂しそうな姿が忘れられません

母が過ごした家は 施設へ入所してから直ぐ売却
そして 実家という思いは 私からひとかけらもなくなりました

飛行機にいっぱい乗れていいよ
強がって 施設 面会に通いながら 売却された家のそばへ近づくのも 目のすることもしませんでした

1周毎に通う面会も 食事の量が少なくなり 施設から病院へ
40日間は 最後迄必死でした

お姉さんは もっと冷たい人かと思っていた
妹の言葉に あれもこれも たしなめたかったこと それこそいっぱい
暗い雰囲気のまま 次男の助けを借り 札幌へ帰りました

次ぐ日 自分が暮らす部屋の明るさに とても 気持ちが救われました
息子達の 実家は此処になる
近過ぎて 余り 訪ねては来ません

変えていこうと思いました

初雪

琥太朗 さんの投稿作品:

201&年9月に産まれて初めての雪。
ほっぺを真っ赤にして喜んでました。

母と私と弟の絆の家

ぴか さんの投稿作品:

私の父は、私と弟が産まれてすぐに大きな家を建てました。
しかしすぐに父は病気で他界してしまい、
その大切な家を売り引越すこととなりました。

父との思い出もその家に置いていくようで、
引越しの日、その家に鍵を掛ける母は泣いていました。
父だけでなく父との想い出の場所まで無くしたような気がして
小学生のあの日がとても悲しく辛かったことを今でも覚えています。

そして心細く三人家族になった私たちは
父と母の故郷である神戸へ移り住みました。

そして中学生になり阪神淡路大地震。
新たな家も天災にあいました。
家族と家を共に失う親戚も多く、
家と家族の絆の復興に無我夢中でした。

そして私と弟は大学を卒業し社会人になり、
やっと今の三人家族で幸せに暮らせると思いきや・・・
仕事の関係で三人がバラバラに暮らすことに。

姉弟がそれぞれに家族を持つまでに
どうしても三人で暮らしたかった私は母に相談しました。
『三人の職場の中間地点に家を買おう!!!』と。

そして母と私の貯金生活が始まります。
そんな夢を持った日から約五年。
三人で暮らすには少し狭いマンションを購入しました。
犬の家族も増えて仲良く寄り添うように幸せに暮らしています。

思い出のいっぱい詰まった家。
この家(家族)の為に働いてきました。
私も若くして無理をし過ぎてしまったのか
半年に二度も入院し手術することになってしまいましたが(笑)
今の生活が私の生きがいです。

震災にあったあの神戸の町で、
復興した町を眺めながら今も神戸で暮らしています。
家族や家を失った親戚のすぐ近くで。
これからも心たくましく、この家で過ごしていきます。
父の建てたような大きな一軒家を住み家に出来るように
日々邁進していきます!!!

ヒッチハイクと雑貨屋

よう さんの投稿作品:

用あってヒッチハイクで行った大阪。
時間はあってもお金がない。

だからヒッチハイクを選んだ。
この選択がたくさんの出会いと思い出、
家族と家を生んだ。

結婚式の帰りにふらっと寄った雑貨屋。
こじゃれていて吸い寄せられるように入った。

おしゃれなお店は他にもあったけど
なんとなく店主と話しだした。

女主人は遠方からきて見知らぬ土地を歩く旅人に
心優しく接してくれて話は盛り上がり
気づけば日は暮れていた。

そこから500km離れた地元に帰ったあとも
インターネットで頻繁にやりとりをしていた。

その半年後、大阪に行く用事ができた。
宿を募集したら真っ先に名乗りをあげたのがこの雑貨屋さん。

ヒッチハイクで500kmの道のりをこえ
再会した雑貨屋さん。

「本当にきたんか!」と驚かれた。

家に招待してくれて
お好み焼きに、ホルモン焼き、おもちに
豚汁に、お団子に、クリームパンに….

数え切れないほどの料理を食べさせてもらい
お風呂で冷えた体をあたため、

こたつで夜ふけるまで娘とゲームをしたり
将来の夢や旅の話を語り明かした。

翌朝、ヒッチハイクポイントまで送ってくれた。
出発直前に泊めてもらった家の前で記念写真を撮った。

そこには、『家族』といえる満面の笑顔が1枚に切り取られていた。

つい先日、また同じ町に行く機会があった。
町を歩いていると娘さんが後から、ばしっと背中をたたいてきた。

「よ、元気?」

お店にいけば、「おー元気?なんかやせた?」
あったかい会話にいまも包まれている。

お礼にはもちろん『家族写真』をあげた。
とっても満足そうで嬉しそうな笑顔だった。

ヒッチハイクで行ってなければ
この町で出会うこともなかっただろうし
店主の記憶に残ることもなかっただろうし
家族ぐるみの付き合いになることもなかっただろう。
ヒッチハイクで始まった出会い、
優しさに溢れた『家』と思い出深い『家族』。

ありがとう。

笑顔とともに、また会いに行きたい。
第二の家と家族の元へ...

未来への夢の続き

ゆうちゃんす さんの投稿作品:

未来が始まった。私の人生が始まった。
そこはどんな夢も描ける場所だった。

父は主人にバトンタッチするかのように、
別れ雪とともに永遠の眠りについた。
元気か?ありがとう。の文字を筆談で書き残し形見になった。

両親がいつか旅行に来た時にゆっくり出来る部屋を準備した。
その矢先の出来事だった。
私の未来がスタートすると同時に。

これから主人と父の夢の続きと、夢の完成を実現する事で、
みんなの心の中に父を生かしてゆきたい。

未来へ向けての夢の続きを。

ろうそくの火を消すためのケーキ

ゴスペルミニストリーSCA さんの投稿作品:

今日は長男の2歳の誕生日。

何が楽しみって、、、もちろん誕生日ケーキ。
ケーキをテーブルに置くと、わいわいと子どもたちが群がってきます。

おいしそうなチョコレートケーキにろうそくをさして、部屋を暗くします。
そして、いよいよお決まりの
「ハッピバースデーソング」を歌いながら火消しタイム。

と思いきや、歌い終わる前に長女が「Huu-」と一吹き。
ブーイングの嵐の中、もう一度着火。
気を取り直してもう一度歌います。

すると、今度は次女が「Huu-」と一吹き。
主役の長男もさすがに黙ってはいません。

「待って、待って、」
と大きな声で叫んでいます。

いよいよ3人揃って本日のメインイベント、
ろうそくの火消しタイムの到来です。

せーのー!
長女「Huu-」
次女「Huu-」
長男「Fuu-」

瞬く間にろうそくの火は消えました。
一件落着、みんな満足してケーキを頬張ります。

ところで、どうして長男は「Huu-」じゃなくて「Fuu-」なの??

祖父の宝物

みゆき さんの投稿作品:

2014年1月7日の寒い朝、私の祖父は急逝しました。
それは、自宅から救急搬送されて3日後のことでした。

搬送されてすぐに祖父は「ひ孫の写真を持ってきて欲しい」と言いました。
ひ孫とは、私の姉の子供のことです。
大好きなひ孫の笑顔が近くにあれば、どんな病魔にも勝てると思ったのでしょう。

祖父は自宅が大好きでした。
時々、外出をしても必ず15時過ぎには帰ってきます。

晩年の楽しみといえば、ひ孫が自宅に遊びに来ることです。
「今日は天気が良いからひ孫が遊びに来るかな?」
そんな言葉が口癖で、遊びに来ると目を細めて一緒に遊んでいました。

今思えば、搬送されてすぐに亡くなったのも、
大好きな自宅に早く帰りたくなったのかもしれません。
お葬式が都合によりすぐに執り行われず、
祖父は自宅に5日間もいてくれたのも偶然ではないと思います。
大好きな自宅に長く居たい、という祖父のわがままだったのかもしれません。
当然、祖父は目をあけてくれませんでしたが、どう見ても微笑んでました。

ところで、祖父が天国へ旅立ってしまった時、当のひ孫は眠っていました。
しかし、起きた後すぐに「・・・ひいじいちゃん」と呟いたそうです。
つまり祖父はひ孫の夢の中に登場し、会っていたようです。
自宅で一緒に楽しく遊んでいた時のように、
きっと夢の中でも楽しく遊んでいたのでしょう。

ひ孫との時間、それは祖父の宝物です。

せいくらべ

happy father さんの投稿作品:

柱に刻まれた我が家の年輪です。
子供達が小さい頃から記録しています。
背を測るたびに色々な思い出がよみがえります。
嫁ぐ日まで記録し続けたいと思います

笑顔って・・・

さやたろう さんの投稿作品:

仕事から家に帰ると家族の笑顔が待っている。
温かいご飯と待っている妻、おもちゃを持って遊ぶのを待っている子供たち。

僕は、家族にとって大事にされてるんだなと実感する。
すると、自然と僕も笑顔になる。

笑顔で過ごすことがたまらなく幸せなのである。
週末になると家族の笑顔をもっと見たくなる。

家で家族一緒にバーベキューをしたり、
ごろんとしたり、時には旅行に行ったり。

幸せとは、いつでも笑顔と一緒なのである。
これからも今まで以上に笑顔を作っていくと家族にそう誓った。

家で食べるごはんが一番。

ふぁふぁ さんの投稿作品:

何気ない日常的な食事時間。
暖かい家ですくすくと成長しながら育っているそんな一枚です。

ドタバタわが家

kiki さんの投稿作品:

まだ、小さな子供たち。
毎日いろんな表情を見せてくれます。
いつもドタバタ振り回されっぱなしだけど、
とても楽しいわが家は、毎日が思い出いっぱい!
思い出の欠片を一枚でも多く子供たちに残してあげたいです。

愛おしい跡

はなまる さんの投稿作品:

結婚して5年目、娘が3歳、息子が1歳の時に購入した新築の一戸建て。
ピカピカの白い壁、ツルツルの床。何もかもが眩しい。

…しかし…

息子がオモチャを投げたり、娘が絵を描いた時には床に染み付いたマジックの跡!
子どもが成長するに連れ遊びも大胆になると、
洗面所のライトのスイッチの下には泥んこの手形がついていたり、
ペタぺタとリビングの壁にシールで絵を貼っている。

大事に住もうと思っても、汚れが日に日に目立っていく。
その都度「こらぁ~!」と頭から角を出していたけれど、

ある日、子どもたちを連れ、実家に遊びに行くと…

「ママぁ、これなあに?」

物置で“お家ごっこ”をして遊んでいた娘と息子。
物置の片隅にしまわれた机の裏側に、“不思議な物”を発見した様子。

「ああ!これ?」

そこにあったのは、花丸を付けた拙い字の小さな答案。
セロハンテープは黄ばみ、紙も ところどころ破れてボロボロ。
花丸も薄く変色していた。
それは、子どもの頃、先生ごっこが大好きだった私が作って貼った答案だった。

そっと手で触れてみる。
「1+1は2で~す。よくできましたぁ」
お人形相手に、得意げに丸を付けていたっけ。

「よくできたから、壁に貼っておきましょうねぇ」
机の下の狭いスペースが私と人形たちの教室。

「算数の次は、音楽で~す」
笛を吹いたり、歌を歌ったりもしたなぁ。

みるみるうちに、当時の記憶が鮮明に蘇った。

このことを伝えると、父は笑いながら
「ああ、剥がしてしまうことができなくて、もう何十年も貼り付けたままにしていたよ」
愛おしそうに語った。
「一生懸命、先生をやっていたよ。あの頃が、懐かしいなぁ」

実家の床の傷、壁に貼られたシール。その一つ一つの思い出を話してくれた。
私が汚してしまった跡だけれど、
それすら“子どもの成長の証”として愛しんでくれている父と母…

なんだか、嬉しくて涙がこみ上げてきました。

それ以来、「汚さないようにね」と注意はするものの、
ほんの少しだけ子どもたちの様子を多目に見ている私です。

綺麗な家は素敵。
でも、年数を重ねて変化していく家も、また素敵。

子ども達が巣立った後、床に付いた小さな傷跡も愛おしくなるのだろう。

…ありがとう、私たちの家…

着物ワンダフル

風来坊 さんの投稿作品:

娘(中央)と同い年のいとこが成人式。
この家と家族が育んだ20年間の思い出が笑顔となってはじけています。

2年前に飼いはじめた柴犬ミルクは娘が「どうしても欲しい」と懇願し、
家族の一員に・・・
過保護なのか、「お犬部屋」を一室与えられ、
普段は居間で家族と過ごす毎日・・・柴犬って室内犬?

そんな家族とべったりのミルクが、
見たことの無い娘たちの着物姿に大興奮の様子。

~成人式が終わって普段着に着替えてから遊んであげるから待っててね。ゴメン!

父の宝物

お父さん大好き さんの投稿作品:

父の宝物は家族だった
家族が大好きで家が大好きな父だった…

私は28年間生きてきて、お父さんが外に遊びに行くのを見たことがない
仕事が終わると真っ先に家に帰ってきて家族と過ごしてくれた
家族旅行に行っても早く家に帰りたがった
「やっぱり家は落ち着くなぁ」
どこに行っても何をしていてもお父さんの言葉はそれだった

誰とでも仲良くなれるお父さん
誰からも好かれるお父さん
そんなお父さんが私は自慢だったよ

「姉弟仲良くするんだ」これがお父さんの口癖だったね
「この家はお父さんの大事な家だ」それがお父さんの自慢だったね

喧嘩もいっぱいしたし、いっぱい一緒に転げまわって笑ったよね
「お父さん」って一言呼べば、何でも悩みや困ったことは解決してくれた
お父さんはヒーローだった

今も悩みがあったらお父さんの写真に問いかける
お父さんが解決してくれると思うから
お父さんが守ってくれると思うから

お父さんが遺してくれたのはこの家と家族
家のどこを見てもお父さんを想いださせてくれる
この家が家族みんな大好きだよ

お父さんの自慢の家
お父さんの自慢の家族
お父さんが遺してくれた家で今も家族みんなで笑っているよ

お父さん、見てる?
お父さんの初孫はもう立つんだよ
お父さんが買ってくれたおもちゃで遊んで、お父さんの写真を見て笑うんだよ
今もお父さんの大好きな家でお父さんの話をしながら
泣いて、笑って、想い出を話してる

きっとお父さんのことだから、大好きな家で見てくれてるよね
今は傍にいなくても、心の中にはお父さんがいる
遺してくれたこの家で家族みんなお父さんのことを想って生きてるよ

お父さん、この想い出の詰まった家と絆が深い家族を作ってくれてありがとう

いつまでもこの家でお父さんの想い出と生きていくよ
昔も今も変わらずに、お父さんは家族のヒーローだよ

みなぎるパワーのお庭

チーズ さんの投稿作品:

父母が結婚と同時にできたお庭。
そして、翌年私の誕生。
ここで遊び、ここで成長し、すくすくと私も大きくなりました。
お庭は、私たち家族にとって、生きがいなんです。
なにかあると、お庭を見つめ、深呼吸し、
たくさんのみなぎるパワーをもらい、元気をくれるのです。
そして、木々達も喜んで、風になびくんです。
お庭は、家族の心のケアをきれいにしてくれる、大切な大切な宝物なんです。

子どもとともに

きこま さんの投稿作品:

ちょうど子どもが産まれる時期にこの家が建ち、子どもとともに家も一周年を迎えました。
あんなに小さかった娘も今ではあんよも上手。そこらじゅうの小さな傷は子どもの成長の証。
これからもどんな証を残していってくれるのか、とても楽しみです。

やっと掴んだ家族の絆

山登りビギナー さんの投稿作品:

成人した娘1人と、息子2人がいる男性と再婚した私。
夫は、3年前に病気で、奥さんに先立たれた。
夫の娘は、独立してアパートに住んでいたが、
2人の息子は“同居”という条件だった。

最初から娘は、私達が再婚することに大反対!
家に時々帰って来ても、
私とは、“目線さえ合わしたくない”という感じで、
私の事は全く“無視”していた。

判っていたこととは云え、私は辛かった。
この事態を変えるには、どうしたらいいだろう?
悩んだ末、出来る限りの努力をしようと思った。

娘がたまに顔を見せると、“手作りスイーツ”をお茶菓子に出し、
気がつく限りのお土産を持たせた。
娘の誕生日、クリスマスには、必ずプレゼントを贈った。

2年後、娘が結婚して第1子を出産すると、懸命の努力が実を結んだ。
娘が母になったことで、親の気持ちが判るようになった為か、
私に対して、急に優しくなった。うれしかった~!!

私は、元来子供好きなので、娘が生んだ男の子を、とても可愛がった。
そして今、再婚して3年が経つ。

娘は、子供を連れては足繁く遊びに来て、
食事をして行ったり、泊まりにも来るようになった。

孫に私の事を、「ばあーば」と教えて、
実の娘と孫のように、仲良く「助け合える親子」になれた。

笑顔に包まれて

おいしいな さんの投稿作品:

最近の新築は快適で便利。
お風呂も自動で沸くし、掃除しやすく、つまずきにくいバリアフリー。
LEDの照明で電気代節約、省エネ家電、それに太陽光発電。
エコと便利さが一体となり楽になりました。

24時間換気で空気もキレイ。
言うことなしの新築を私も建てました。

お風呂の温度がうまく調節できず、妻と喧嘩したり、
段差につまずいてイライラして
喧嘩になったりしていた頃と比べてみると、笑顔が増えました。

一般的には、環境に優しい住宅を「エコ住宅」と呼びますが、
我が家では、喧嘩やイライラを減らし頭にこない、
頭を無駄に使わず疲れない夫婦に優しい「エコ住宅」と呼んでいます。

家族を繋ぐ家

セレン さんの投稿作品:

アパートで新婚生活が始まり、数ヶ月経った頃、
部屋のあちこちにカビが生え始めた。

最初の頃は、拭いてしのいでいましたが、
拭いても拭いてもカビが繁殖して臭いがきつくなった。
台所の床には水たまりができていた。

業者を呼んでみたところ水道管から水が漏れていて、
それが原因で水たまりになりカビだらけになったそうです。

私たち夫婦は、アパートを出ようと考えました。
初めは、他のアパートに移ろうと思っていましたが、
思い切って新築一戸建てを購入しました。
ハウスメーカーと何度も打ち合わせをして一年程過ぎ、
ようやくカビだらけの部屋から木の良い香りがする
木造新築一戸建てに移り住みました。

住み始めて半年くらい経ちますが、きれいで、快適です。
広いので掃除は大変ですが、
ハロウィン、クリスマスやお正月の飾りつけを夫婦でするのが楽しく
笑顔が前より断然増えた気がします。

君と家

お母ちゃん さんの投稿作品:

君が生まれて11年。
家が建って11年。

6月の爽やかな青空の日に君が生まれ、
同じ6月に我が家になった家。

7月の初夏の日差しの中、初めて3日間だけど、やっと帰れた家。
8月のかんかん照りの中、みんなが会いに来てくれた2度目の家。

秋には、もうずっと家で暮らせると思ったのにね。
君の笑い声が家中に響きわたっていると思ってたのにね。

3度目は涼しくなり始めた星空の中、ママに抱っこされて戻った家。

あれから11年間。

たった6日間だったけど・・・
この家で君と過ごした思い出は色あせる事もなく。

6日間だけど、君とこの家で過ごす事ができて良かった。

ありがとう君
ありがとう家

ずっと一緒…

さくらんぼ さんの投稿作品:

小さな頃からお父に肩車されたり、
母の愛情たっぷりラーメンに癒されてきました。

住まうという点では
決して立派な家ではなかったかもしれないけれど
一緒に旅したり、趣味や仕事を楽しんだりと鋭気を養える場所を
与えてくれたことに感謝しています。

春はチューリップ、夏はあじさい、秋はコスモス、冬は葉牡丹と
彩を変える庭を楽しめる環境で
四季の味わいを教えてくれたのも両親でした。

これからもずっとずっと家族みんなで私たちなりの丁寧な暮らしを
楽しんでいけたら嬉しいな。

「ぢいちゃんとボク」と「じいさんと僕」

Linnks さんの投稿作品:

その頃のボク楽しみと言えばもっぱら、
正月や盆に母の実家に帰省することのほか興味がなかった。

海に山に旅行に行くでもなく「ぢいちゃん家」。
ボクの住んでいるところから約100キロ。
大きな峠をいくつも越え山に囲まれて、綺麗な川が流れて、
カブトムシやクワガタに普段見たこともない木の実が落ちていて、
いつも畑焼きの煙の香りがする小さな集落にあるそんな「ぢいちゃん家」。

昔ながらの平屋で大きな玄関、長い板張りの廊下に大きな仏壇の間。
畑を一望できる日のあたる縁側に隅にある謎の部屋。
そんな廊下の途中においてある黒く重厚な足漕ぎミシンは
いつだって背中のまあるいばあさんの定位置。

正月には玄関で臼と杵での昔ながらの餅つき、廊下では鬼ごっこに探検ごっこ。
バレーボール好きの母や野球好きの叔父が過ごしたと思われる部屋。
壁に飾られた日に焼け、古くなったペナントが
当時の母達の生活を時間を遡って見せる。

ボクには姉がいたので初孫ではなかったが、
初男孫ということで「ぢいちゃん」は猫可愛がりだったらしく
いつも「ぢいちゃん」のお気に入りのこたつの場所で抱えられ、
母になかなか返さなかったらしいと聞いていた。
今考えるとじいさんにとって孫のボクが生まれても
母達の思い出を家に少しだけ残しておいたり、ボクをいつまでも離さなかったりと、
「ぢいちゃん」は踊り好きでお調子者な性格だったと思っていたが、
相当な寂しがりやだったのかもしれない。

そんな「ぢいちゃん」がお小遣いをくれる際、
いつも決まってぽち袋の裏側には「ぢいちゃんより」と書くのだ。

学校に通い始めたボクが何度も「ぢいちゃんじゃないよ、じいちゃんだよっ」
と言っても直ることはなく、「ぢいちゃんでよござんす(いいんですよ)」と
笑ながらボクをからかう「ぢいちゃん」。
帰省し僕たちの車が到着すると玄関で決まって誰にでも笑顔で
「よぐ、おでんした。(よくいらっしゃいました)」という「ぢいちゃん」
帰りの見送りの際は家の前で必ず泣く「ぢいちゃん」
車が見えなくなるまで手を振る「ぢいちゃん」
そしてきっと家でまた泣いてる「ぢいちゃん」

そんな宝箱「ぢいちゃん家」に親族集まる季節は
何より待ち遠しく、そして別れがたいものだった。

大学で東北から上京し4年。
じいさんが脳梗塞で倒れ、
命に別状はないが記憶機能に障害が残ることになったじいさんが
「ぢいちゃん家」を離れ100キロ離れた介護施設に入ることになった。

帰省し久しぶりにあったじいさんは戦時中のこと、
母さんの小さい時のことぐらいまでしか思い出せないらしく
僕のことは思い出せないが
母と顔がそっくりなので親族に違いないという程度の認識(笑)
笑顔も相変わらずだった。
身体に影響は少なく嬉しくもあったが同時に少しだけ寂しくもあった。

上京から10年。ばあさんが亡くなった。
僕は帰省し、施設にいるじいさんに「ばあさんが亡くなった」と告げるも
「はぁ、そうか」そして、5分くらいたつと「ばあさんは元気か?」という繰り返し。

最後の方にはばあさんの死のことは言わず、
「実家に戻るんだよ、よかったね」とだけ伝えていた。
施設にいるじいさんを車に乗せ「ぢいちゃん家」までの2時間の帰路。
何度となく忘れては教え、教えては忘れを繰り返す。
後に母に聞かされたのだが、
じいさんは身体を煩ってから初めての帰省だったらしいのだ。
ばあさんも亡くなり、
記憶も曖昧なじいさんにとってもなんとも悲しい帰省になってしまった。

ところがとても不思議なことが起こった。
車が家の見えるところにさしかかり、
じいさんがいつも「おでんせ」と迎えてくれた玄関に
「忌中」の幕がかかる家の姿を見た途端
「ばあさん逝ったかぁ、ありがとな。」と突如泣き出したのだ。
車内では説明するのも諦めていた矢先だったので
何が起こったか全く理解できなかった。

記憶の曖昧だったじいさんが家を見るなり
全てを察したように手も引かれずに自ら動きだしたのだ。
棺に収まるばあさんを見たじいさんはいつものように泣きじゃくり、
疲れて誰に言われずとも自分がいつも座っていたこたつの場所へむかう。

するとそこにいた僕と叔父の名を呼び、
これから来る方をしっかりお出迎えしなきゃだめだろうと
突然のお叱りの言葉の中に、伯父と僕の名…。

一瞬にして伯父は昔を思い出したかの如く
怒られる子供の様にしゃんと背を張り、
僕といえばそんな伯父の様子への戸惑いと
あの時のぢいちゃんが帰ってきたという思いにかられる。

不思議な事に我が家を見た瞬間から時間が突如巻き戻されていたのだ。
伯父と僕は目の前で起こっているコトを受け止めるので精一杯。

と、いっても記憶が繋がった時間はここまでで、
気づけばまたいつものじいさんに戻っていた。

そんなじいさんも今は亡くなり、また自分の家に帰ってくることができた。
あの時確かに名を呼ばれ怒られたという話は親族の間でも信じて貰えず、
伯父と不思議な体験として、
じいさんの遺影を見るたび今でもその話で2人盛り上がっている。

祖母の栄光

ムーミンママ さんの投稿作品:

古い田舎の家の小屋に今は亡き祖母の栄光が飾られています。
祖母は、グランドゴルフが大好きで数々の大会に出場しては優勝を繰り返していました。
その度に、嬉しそうに電話で報告してくれたのでした。
祖母の栄光がこの小屋にはまだ残っています。

キューーーーーーッ!

6 さんの投稿作品:

「病名は肝ラブドイド腫瘍です。
これまで世界中で30数例しか報告のない、
3年後の生存率は10%という難病です。」

そう宣告された時、息子の禄(ろく)は生後8か月でした。
そんな難病と闘いながらも、いつもにこにこ笑顔を絶やさず、力強く生きた禄。
たったの1年2か月でしたが、私たちにとって例えようのない、
かけがえのない幸せをもたらしてくれました。

そんな禄が、まだ何の心配もなくすくすく育ってた頃。
父ちと一緒にいつもわいわいキャッキャキャッキャ言いながら
お風呂を楽しんでたね。
そして、お風呂あがりはいつも決まって母ちにキューッ!とされてたね。

「病院のアイドルだね☆」と看護師さん達みんなにかわいがられてたけど、
やっぱりお家が一番。
一時帰宅した時も、ずっとずっ~とお家にいました。
母ちと「ごちーん」なんてして。

最後に一時帰宅した時。
頑張って病気と闘って、体に入れられてた管が全部はずれ、
きれいな体で帰ることができました。
そんな禄へのご褒美に、
久しぶりに父ちと一緒にお家の大きなお風呂で
ゆっくり湯船につかって60かぞえたね。

こんな幸せが、ずっとず~っと続くと思ってました。
でもまだまだ続いてる。
禄のいた家は、ずっと、ず~っと、禄と一緒に生きている。

たくさんの愛をありがとう

はるみに さんの投稿作品:

この夏、結婚し初めて実家を出ました。
私は父からも母からも大切に育てられ何不自由なく育ってきました。
ですが、その愛情の大きさに改めて気づいたのはこの結婚式でのことでした。
母は私に一通の手紙をくれました。

そこで知ったのは、両親の私への思いでした。
父は、弟が生まれるときに私が県外に住む祖母に預けられていた時に、
部屋に飾ってある私の写真をさみしくなるから全部しまえと母に言ったそうです。
また、毎週のように父と肩車をしてもらって動物園に行っていたこと。
父が私のことをどれほど大好きで思っていたのかが綴られていました。
そして母は私に、もう娘ではなく嫁になるということを説いてくれました。
漢字にある通り「娘」というの女の良いときはもう終わって、
「嫁」つまり女はその家のことを守る時になっているだということ。
だから私には夫の家をしっかり守らなければならないということ。
こんなことを言ってもらったのは生まれて初めてでした。

両親の言うことに反抗した時のことなど、すべてが走馬灯のように思い出されました。
母からの最後のプレゼントは写真にある手作りブーケとベールアップです。
いろんな思いを3人でめぐらせながらこの時を静かに、
厳かに過ごせたことを今でも鮮明に覚えています。
自分が両親からもらった溢れるほどの愛を、
今度は私が自分の夫、子供に捧げていく番なのだと改めて感じています。

おじいちゃん、ありがとう

sana さんの投稿作品:

小さな運送会社を経営していたおじいちゃんの夢は、
自分の理想の家を建てることだった。

幼い頃、1階が会社の事務所、2階が自宅という家に
祖父母と両親、私と妹弟の7人で暮らしていた。
「事務所とは別の、庭がある立派な家を建てたい」
おじいちゃんはいつも言っていた。

小学4年生の頃、その夢は叶おうとしていた。
毎日図面をみながら、ああでもない、こうでもないと楽しそうなおじいちゃん。
その隣でおばあちゃんはニコニコ笑っていた。

階段の傾斜はゆるやかに、のぼりやすいように。
キッチンには食洗機やオーブンを備え付けて、
お風呂やトイレも全部、当時としては最新のもの。
おじいちゃんの理想の家は、おばあちゃんのための家。

そしていよいよ家を建て始めた頃…
おばあちゃんが病気で亡くなった。

おじいちゃんが新しい家を贈りたかった人は、家が建つ前にいなくなってしまった。

夢見た理想の家に住みはじめたのに、おじいちゃんはあんまり笑わなかった。
そのかわりよく怒鳴った。父も怒鳴った。
私も叫んだ。泣いた。暴れた。妹や弟は部屋に逃げ込んで、閉じこもった。

「毎日家の中で戦争が起こってるみたい」母はいつも悲しそうな顔をしていた。

おじいちゃんが夢見た家で、私たち家族は壊れてしまった。
私は逃げ出すように、県外の大学にいった。

私が大学3年になる頃、おじいちゃんはベッドで過ごす時間が長くなり、
いろんなことが分からなくなってきた。

たまにしか帰らない私のことは忘れてしまった。
それでも、「家を離れたくない」といい続けた。

バラバラになっていた家族が、みんなでおじいちゃんの介護をした。
だけど私は怖くて悲しくて、
テストや就職活動を理由にしておじいちゃんのいる家には帰らなかった。

そうしておじいちゃんは、自分が夢見て建てた家でそっと息を引き取った。

私は遠く離れた場所で就職して、結婚することになった。
その時、ようやく自分の住んでいた家に向き合おうと思った。

おじいちゃんが建てた家は、薄情な私を優しく迎えてくれた。
父や母と笑って話せるようになった。

そして今。おじいちゃんの家は、いろんな場所がくたびれてきたけれど、
時々帰る私と私の家族を、あたたかく迎えてくれる。
いろんな場所に残る傷跡も、今ではなつかしい思い出。

だけど1つだけ。
この家にいるおじいちゃんの写真が、1枚も残っていないことを悲しく思う。
もしかなうなら、この家でおじいちゃんと写真を撮りたい。
…出来れば、笑顔で。

おじいちゃん、ごめんね。
おじいちゃん、ありがとう。

今さらだけど、届くかな。
「私ね、おじいちゃんが建ててくれた家が大好きだよ。
また子どもたちと一緒に遊びにいくからね」

今でも変わらない家族の笑顔が集まる家

anego さんの投稿作品:

父は退職後5年だけ海のそばで暮らすと購入した家。
でもその本人はたった半年でこの世をさりました。
その数年後祖母がこの世をさりました。
それでも盆正月には家族たちが集まって大騒ぎしていました。
カラオケ大会やディスコ大会。
私は当時20代で東京在住。盆正月しかやはりこの家に来ない。

それから数十年が経ち、一緒に住んでいた兄も転勤で関東在住になり、
母がひとり暮らしていました。
神戸の震災で頑張って母を守ってくれた家。

海のそばで朝夕の景色は綺麗ですが、やはり不便です。
都会育ちの私には少々無理もあるのですが、
なぜか母はこの地を離れようとしません。
仕方なく私が家に入りました。

認知症の始まりで、家の中には溢れんばかりの品々住むどころではありません。
もう、この家を売って便利な土地に行こうと説得しますが、
母はこの家で最後まで暮らしたいといって聞きません。
都会の家を売り、リフォームをしました。買うほうが安いと思うんですけど・・・・

リフォームするにあたって母との対立が起きました。
母のためにするのに、母は自分の認知症を認めたくないがために、
私を罵り毎日喧嘩でした。
リフォームされたら介護支援を受けるつもりでいました。
兄弟たちも母の見方でした。でも、私は徹底して母と戦い勝利を得ました。

母はリフォーム中も部屋に住みがーんとして動きません。
それでもリフォームは進み出来上がりました。
するとどうでしょう・・・・
母は「すごーーい!快適快適♪気に入った」と大はしゃぎです。
はい?まじですか?あの半年間はなんですか???

兄弟たちも居心地がいいみたいでよくきます。
綺麗になった家、暖かな家、父が見守ってくれたおかげです。

そして今年のお正月は家族全員が揃いました。
笑顔で溢れています。今年母が90歳のお誕生日を迎えます。

コツコツと父が大切にしていた庭を縮小はしましたが、
私なりのコーディネートで今も手入れしています。

もう私自身も母の終期をこの家でさせてあげたいと思っています。
私もこの家に入り持病の悪化や難病発覚等で凹んでおりましたが、
今はこれでよかったと思っています。

私が運転できる限りはこの家で暮らしたいですね。