今から五十年ほど前、私は父の仕事場からのギコギコと云う音で目を覚ましていた。
父は、鋸の刃を研ぐ職人で、家は店と居室が隣接する町屋。鋸の小さい刃を、一つ一つヤスリで擦って砥ぐ根気のいる仕事。一本の鋸を仕上げるのに二時間はかかった。
クーラーなど無い昭和の時代。汗だくで働く父のため、母は日に何度も冷凍室で凍らせたオシボリを運んだ。大食漢だった父の三度の食事の世話に追われて、私の記憶の中の母は湯気の向こうにいる後ろ姿だ。
今でこそドラマでしか見られないような光景だが、普段はおとなしい父が、ある酒量を超えると卓袱台をひっくり返す事もしばしば・・・それでも仕事が途切れずに来る時は、丸い小さな卓袱台には、載りきらない程の母の手料理が並んだ。
だが、父の仕事が暇になると途端に夕食の品数が少なくなり、子供ながらに、「うちは大丈夫かなぁー」と心配になった。
だから、晩御飯の「いただきます」は、「お父ちゃんの仕事があってよかったぁ!」
という安堵の気持ちが含まれていて、お腹いっぱい食べた後の「ごちそうさま」も、
汗だくで働く両親への感謝から発せられる言葉だったように思う。
だが 店を通らないと部屋へあがれない家は、思春期になった私にとって、わずらわしいものとなっていった。どこへ行く時も、父の横を通って行かなければならない。頑固で厳しかった父に、「誰と何処へ行って何時に戻る」と言わないと許してもらえない。夜遅く帰るサラリーマンのお父さんが、うらやましくてしかたなかった。
その後、就職した私は友人と飲み歩いたり 恋人と食事をしたり家族との狭い4畳半の夕食は減っていった。
あれから30年・・・・
結婚し二人の娘を嫁がせて、サラリーマンの夫と二人暮らしになった。夫が出張でいない時や遅い時は、一人で夕食を食べる。思い出すのは 家族で囲んだ丸い卓袱台、角が無いからどこからでも大皿に手が届いた。やっと買った白黒テレビを見て大笑いしながら食べたあの日のこと。
寝室兼、居間兼、ダイニング兼のあの4畳半は「いただきます」と「ごちそうさま」が沁み込んだ温かさに満ちた空間だった。丸い小さな卓袱台の上の さもない料理の数々と父の一合の徳利。ささやかな毎日の夕食で、大きい声で言っていた「いただきます」と「ごちそうさま」・・・
思い出す度に、今も温かいものに包まれる。働く事と食べる事が、深く結びついている事を自然に学んでいたんだなと思う。
人にとって「家」というものはどんな家に暮らしたと云うことではなく、
どんなふうに暮らしていたかと云うことが大切なんだなぁと感じている。