昭和四十六年、私達は結婚し、横浜市の郊外、旭区四季美台に新居を構えた。
新居といっても余った木材を集めて建てた安い建物で、日当たりも悪く、しかも私鉄の駅からも遠く、夫は、毎日、二十分も駅まで歩き、雨や雪の日は大変だった。そんな状況で、私は、東京の新橋にある商事会社を退職せざるをえなかった。
しかし、自然に恵まれた場所でもあった。道で狸の親子に会うこともあり、風呂場に蛇が侵入することもあり、町の小さな商店街の歳末大売出しの福引の一等賞品は「生きた豚一頭」だった。
昭和五十二年、出産を機に、転居を考えた。その結果、夫の友人の不動産屋さんの紹介で横浜市港南区に引っ越すことに決めた。
新居は、根岸線港南台駅から徒歩十八分の新興住宅地で、当時、港南台駅からはバスもなく、夫は、住宅街の外にある野庭口というバス停から京浜急行線上大岡駅へバスを利用していた。N不動産という会社が開発した住宅地で、広い公園も三つもあり、これからの子育ての場所として私に沢山の夢を与えてくれた。
新しい住居の引越しは、私にとっては生活革命といってよかった。先ず、プロパンガスが都市ガスになり、汲み取り式のトイレが水洗トイレになった。私達夫婦は、新しい住居に移り、沢山の夢を描いた。
私には三つの夢があった。
一つは、自動車の免許を取得し、生活の足として利用し、買い物等に利用することだ。前の住居は車庫をつくるスペースはなかった。しかし、今度の住居はたっぷりある。
二つ目の夢は、犬を飼い、庭に犬小屋をつくることだ。これは、住宅地の人から生まれたばかりの柴犬を譲りうけ、やがて、我が家の家族の一員となり、愛犬は生活にうるおいと変化を与えてくれて、家族の歴史に沢山の彩りを与えてくれた。
三つ目は、余裕のある広さの庭で木や花を育てることだ。そして、その主役としての我が家のシンボルツリーを考えた。その結果、夏蜜柑に決めた。その理由は、夫が高校の日本史の教員をやっており、以前夫婦で山口県の城下町に旅行した時、萩の武士たちが夏蜜柑を庭に植えていたことが気に入り、そんな理由で決めた。
一本の夏蜜柑の木が順調に育ち秋から冬にかけて、青々とした木々の間から、黄金色の夏蜜柑の実がたわわに実り、周囲に緑の少なくなった季節に新鮮な輝きを放った。
一本の夏蜜柑の木は、だんだんと私達家族の一員の位置を占めるようになった。外出して帰って来て、角を曲がると、常緑樹の緑豊かな夏蜜柑の木が迎えてくれる。私もホッと心が安らぐ。
特に灰色の冬の夏蜜柑の樹は素晴らしい。重たそうにたっぷり付けた大きな実を、私達だけでなく、街の人や登下校する小学生たち、新聞配達の若者も、この夏蜜柑の樹の下でしばしば見上げている。
私の家の夏蜜柑は三十年以上の歴史をもちながら、道に面した場所に実っているのに、一度も勝手に持っていかれたことはない。それだけ、夏蜜柑の木は、街の人から愛され、市民権を与えられているということが、私達家族にとっても嬉しい。
私は、この街が好きだ。枇杷の実がたわわに実る家もある。金木犀の薫る家も素晴らしい。結婚した娘が、里帰りでわが街に帰って来ると、家々の花や樹々が「おかえりなさい」と、出迎えてくれると娘は言う。勿論、私の家の夏蜜柑の木も「モトちゃん、お帰りなさい。大きくなったね」と、笑顔で迎えてくれる。
私にとって一番さびしい時は、夏蜜柑の実を収穫する時だ。明日から、笑顔が消える。しかし、収穫しないと樹が痛む。
「また、来年会いましょう」
と言って収穫する。そして、その実は、友人たちに分け、やがて素晴らしい無農薬のママレードやケーキとなって食卓の美味しい花となって再び咲く。