準グランプリ

3名様:JCB ギフトカード5万円分

おかえりなさい

はなさかじいさん さん

祖母が脳梗塞で倒れたのは、かれこれ12年前のこと。後遺症で右半分が動かし辛くなり、家の中では歩行器が、外では車椅子と介助者が必須の生活となった。

歌が好きで、お洒落で。着物を着て原付バイクにまたがり何処へでも出掛けていたのに、家にひきこもり、寝てばかりいるようになった。当然誰もが心配した。

祖父は、同居する三女・私の母が仕事をしている昼間、昼食の支度と後片付けという小さな家事を担うようになったが、それすら初めのうちは、なかなか受け入れられない様子だった。祖母よりも、もしかすれば誰よりも、祖母の身に起きた不幸に傷ついていたのかもしれない。

孫である私は離れて暮らしているが、時々三人の子を連れ帰省する。帰ると祖父母がよろこぶので、年々、帰る頻度は多くなる。

ある時いつもの様に帰省すると、「これ見てみ。」と、祖父が紙切れを手渡してきた。
見て驚いた!領収書なのだが、桁が違う。「どうしたんこれ?」と訊ねる私に、祖父は静かに笑って、「ばあちゃんにな。」と一言。

我が家は小高い坂の上に建っており、展望こそ素晴らしいが、訪れる人は昇り降りに苦労する。当の住人たちも勿論大変で、冬になり地面が凍結なぞすれば、坂を下るなんてもう狂気の沙汰。昔大雪になった際、家族みんなで手を繋ぎ、キャーキャー叫びながら、坂を下った記憶が懐かしい。

祖父はその坂に、祖母のために手すりと階段を取り付けたのだった。
室内の廊下とトイレにも手すりを付け、なるたけ不要な段差を無くすリフォームもしていた。
「それにしてもこんだけかかったん!」
いつもは一円でも安い品物を探し出すべく、毎朝新聞の折り込み広告とにらめっこしては、「今日も得した。」と満足顔で買って来る祖父…。
祖母の事には、ポーンと数百万円ものお金を出したなんて。

連れ添って何十年。普段は「おはよう」「おやすみ」の一言さえ交わさない二人に、いまだ確かな愛情が流れているのだと、胸がジーンと、熱くなった。

思えば、共働きの両親が居ない間、私と妹を育ててくれたのは、祖父母だった。明るい祖母。無口な祖父。正反対ながらも、それぞれの温かさで、親と居られない寂しさを、包み込んでくれた。

「家は生きもんや。家には人を呼ばないかん。」
“人が集ってこそ家は生き、繁栄する―”
そう言って祖父はよく人を家に招き、親戚もしょっちゅう泊りに来ては、大宴会をした。

祖父は人を呼ぶだけ呼んでおいて、自分はお酒ばかり飲んではすぐに寝てしまう。もてなすのはいつだって、祖母や母の役目だった。それでも祖母や母も愉し気で、私もそんな夜が大好きだった。

年末について丸めたお餅を、新年集まったみんなで焼いて。夏は庭で流し素麺。川の字でいとこと眠り、朝採れトマトにかぶりつく。秋は難儀する落ち葉掃き。その落ち葉で焼いたお芋のおいしさ。また来年みんなでお蕎麦を食べるまで…。

四季折々の、日々の暮らしが、そこにあった。太陽の様な祖母と、月の様な祖父が居たからこそ、我が家という星は生まれ、回っていた。そして父と母が懸命に働きながら、建ててくれた家。

当たり前の暮らしを、当たり前にさせて貰えた有り難さが、今ならわかる。離れて暮らしていても今尚、祖父母がくれた光は、私の身体中に、心に、優しく強く、煌めいていて、今度はその光を、子ども達に伝えられている。

育児に、日々の暮らしに疲れてもまた頑張れるのは、暑い時には「ジュース冷えてるで。」寒い時には「はよコタツ入り。」と迎えてくれる、祖父母の居る、家があるから。

最近もおトイレで躓いて、祖母が足の骨を折り入院してしまった。
「リハビリがキツイ。」と電話口でこぼす祖母に、「じいちゃん、待ってるで!」と、励ましたばかり。本当は私が一番、励まされてる。

祖父母には「頑張れ」なんてもう、言うつもりはない。生きていてくれるだけでいい。ただただ一日でも、一秒でも永く、一緒に居たい。そしてただただ出迎えてほしい。「おかえり。」と。

祖母が退院する日が来たら、先回りして、待っていようと思う。
「ばあちゃん、おかえり!」と、子ども達より速く、玄関へ駆けて行こう。ご馳走作って、パーティしよう。じいちゃんが飲み過ぎても、怒らないでいよう。

その日が来るのも、そう遠く、ないはずだ。

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