我が家の契約の日、私は勤務先の名古屋から駆け付けた。母は高揚した笑顔と大きな安堵の表情で待合せの横浜駅にいた。
私を見つけた途端に母は走り寄り、人の目も気にせず抱きついた。母の体の温もりを感じた。
「ありがとう・・・」の言葉だけで絶句し、嗚咽していた。
赤くうるんだ眼が母の歓喜を伝えていた。
母の生涯で一番の念願の叶う日となった。
「一度は自分の家に住みたい」、私の幼き頃からの母の口癖で、しかし遠い願望だった。借家更新のたびに家主に頭を下げ、落胆し深いため息をつく愕然とした母の姿は、あまりにも哀れすぎた。果てない生活苦があった。
これを最後にする決意をし、母に打ち明けた。
母が懸命になって探し求めた家は小さな中古の二階建てで、横浜泉区の閑静な住宅街の一角にあった。晴れた日には遠くに富士山が見えた。
余程気に入ったのか、幾度もこの事を連絡してきた。電話の声は揺らぎ弾んでいた。生涯の夢と言い続けてきた『自分の家』、母の固い信念が成就を手繰り寄せていた。父母妹が生活するには充分過ぎる広さだった。
わずか30分ほども不動産会社の契約の間、幾度も
「生きていて良かった。ありがとう、夢のようね」
とつぶやきはしゃぐ母がいた。傍らには定年を迎えていた無言の父がいた。
20年のローンの支払いの名義は私だった。苦労し過ぎた母への感謝から、無謀を覚悟で契約書に印鑑を押した。支払いの全責任がかかった。まるで幻想の世界の出来事だった。母が57歳、私が31歳になっていた。契約を終え夢が現実になった瞬間、私の体にもたれて静かに目頭を押さえ涙している母がいた。幸せの遅すぎる春がやっと母に訪れた。
しかし私がこの家に住むことは一日としてなかった。
30年間で、11箇所もの引っ越しがあった。
終戦前に満州で産まれた私は、引き揚げて母の故郷九州で3歳まで過ごした。戦後の混乱期、生活難で当時石炭景気に沸く北海道に夢を託して、一家で移り住んだ。これが我が家の長い流浪の始まりだった。
父に仕事運はなかった。6年間で3度の炭鉱倒産閉山の憂き目に会った。札幌に職を求めても3年余、定職には就けなかった。最後は一縷の望みを知人にかけ横浜に移り住んだが、今度も無残だった。苦労だけが人生の道連れだった。
六畳一間に家族6人が生活した。困窮の生活の底も抜け切っていた。私は13歳で新聞専売所に下宿し、仕送りを始めた。華奢な体の母も働き始めた。慣れぬ北海道での厳冬の9年間の生活と、日々の心労で母はまもなく癌で倒れた。胃癌で3分の1を摘出した。
気丈夫な母は、その後も無理を承知で働いた。六畳一間の困窮な生活は、母の懸命な働きで脱したが、借家生活と引っ越しは依然として付いて回った。小中学校では5度の転向を経験した。友との寂しい別れがあった。
父は家にはまるで無関心だった。借家探しと契約は、いつも母の役目だった。
その心労と思いの丈を、たくさんの手紙で書き送ってくれた。
「一度でいいから、自分の家に住みたい」
と。疲れ切った母の文面は、時としてインクの滲んだ涙跡の筆跡があった。
病に倒れても働き続ける母の体力と気力は、限界を超えていた。
私は母に家探しを依頼した。
母の願望だった、人生で初めて手にした「自分の家」。程なくその家から妹が嫁ぐことになった。
「自分の家から娘を嫁がせることの幸せは、親として言葉がありません。この御恩はきっと忘れず、来世にお返ししますね。」
感動して躍動する母の文字を読み返し、涙が滲みでた。母の喜びは最高のものとなった。
小さな庭に季節の花を育て、大切に芽出ていた。自分の家に住めることの幸せを、母は何度も執拗に連絡してきた。やっと巡り合った安住の地に、人波の幸せの温かい時間が流れた。体力も気力も戻って来たかに見えた。
98通目の手紙が届いた。いつものように家族の様子を仔細に綴り、最後に
「1カ月ほど入院します。心配しないでください。」
と母らしい気遣いが記してあった。
これが最後の手紙となった。この僅か23日後に母は逝った。危篤の体で気力を絞り、入院前日に手紙を書いていたのだ。ステージ3の大腸癌だった。
62歳の早すぎる人生だった。神が母にほほ笑んだ幸せの時間はほんの1800日、あまりにも不憫で幸薄いものだった。
『自分の家』で静かに布団に横たわる母に抱きつき、耐えきれずに肩を震わせて泣いた。小さく冷たくなった手を握り締めた。涙が母の額にいく筋も流れ落ちた。母の短すぎる幸せの時間に、涙は止まることがなかった。
春がまた来た。父も妹も亡くなっていた。たまらずに『わが家』の家跡を訪ねた。新しい家が建っていた。
往時を偲び呆然としていると、突然に割烹着を着た母が妹を連れ、わが家の玄関に立っていた。あの優しい笑顔で私の名前を呼び、手招きしている母がいた。