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父の夢をつないで

武居ぱんだ さん

家を新築することが、父の長年の夢だった。

私が物心ついたときから、狭くて古い家に家族七人、肩を寄せ合って生きていた。
畳の下の床は傾き、歩くたびに家が揺れた。家中雨漏りがし、冬の隙間風が辛かった。

三人姉妹が思春期に差し掛かり自分の部屋が欲しいと言い出すと、父はボソッと言った。「そうだな。そろそろ建てるかぁ。」

家族の誰もが喜んだ。家族皆の願いを叶えようと、父は張り切った。三人娘には個室を、自分の趣味の絵画のためにアトリエを、大勢が集まれる居間を、長く住める家を父は望んだ。昭和50年代後半のことだった。

夢のために、切り詰めた生活が始まった。父は一馬力で家族7人を支えていた。今までも楽ではなかったが、生活はいっそう厳しくなった。食費を削り、電気や水道も節約した。高校は公立しか受けさせてもらえなかった。しかし、家の新築のためには、こんな生活も苦ではなかった。

平成元年、「ついに着工!」かと思われた。

しかし、直前になって、役所の許可が下りなかった。家を建てようとした土地が、『市街化調整区域』だったのである。設計さんとも大工さんとも地主さんとも、万事うまくいっていたのに。計画は一瞬で暗礁に乗り上げた。

家族のみんなが悲しくて悔しくて、落ち込んだ日だった。殊に父はがっくりと肩を落としていた。家が建つはずの土地。そこは地ならしされたまま、何年もの間、風にさらされていた。

それでも父は、決して諦めなかった。
(自分の夢を実現させたい。)
そんな思いから、仕事の合間に法律を学び、役所に通い、頭を下げ、ようやく家を新築できる許可をもらった。

平成7年。父の夢だった家が完成した。「家を建てよう。」と決めた日から、実に15年の月日が経っていた。

私達家族にとって、まさに『夢のような家』だった。
丈夫できれいな床、外気を通さない窓、足が伸ばせるお風呂、自分だけの部屋。それだけではない。吹き抜けの玄関、一辺が30センチメートルはあるであろう大黒柱、一文字瓦、泥壁。父は趣味の自作の絵を壁に飾り、家は小さな美術館になった。

知らない人にまで「立派な家ですね。」と言われた。家族みんなが喜び、幸せだった。

思えば、このころが幸せの絶頂だったかもしれない。

間もなく母が病気で亡くなり、祖母も他界。私達三人姉妹も遠くに嫁いだ。そしてとうとう、父自身が病に倒れ、帰らぬ人となってしまった。幸せの象徴だった家は、たちまち空き家となってしまった。

父は生前、「定年後は、家でゆっくり絵を描いて過ごしたい。」と言っていたが、それは叶わなかった。娘が里帰りしたり、孫たちが遊びに来るのを楽しみにしていただろう。
(こんなはずではなかった。)
誰もがそう思った。本当に無念である。

家は長女である私が相続した。
二百坪の借地代と六十坪の家の固定資産税を払い続けるのは大変だった。売ってしまおう、家を壊して更地にして土地を返そう。手放してしまいたい、手放して楽になりたいと、何度も考えた。妹たちもそれでいいと言ってくれた。

住む人を失った家で、家の中が物悲しいくらいきれいになった。しかし、この家を見れば見るほど、隅々に父の思いが溢れ、家族の思い出が溢れていた。胸がいっぱいになった。

苦労して建てた家、立派に建ててくれた家を大切に守りたいという感情が芽生えてきた。やはり簡単には手放せない。

夫と相談し、定年退職後はこの家に、一緒に移り住むことになった。まだ十五年はあるが、それまでしっかり維持・管理するつもりだ。今は借り手も見つかった。

父はいい家を残してくれた。借金は一銭も残さなかった。感謝の気持ちでいっぱいである。

父は、「この家は百年住める。」と言っていた。家は手入れすればするほど、きれいに長持ちする。ほころべば直し、壊れたら直して大切に住めば、百年三代、いやそれ以上住むことができるだろう。

私はこの家に住むことで、父の夢をつないでいきたい。定年退職後の第二の人生が楽しみでしかたない。

ありがとう、わたしの家。

これからもよろしく、わたしの家。

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