「ありがとう、わたしの家」賞

5名様:JCB ギフトカード1万円分

2016年4月

こっち さん

結婚式のスライドショーで1枚の写真を使った。七五三の写真。着物が窮屈で早く脱ぎたいと暴れ回る私を、父が捕まえ、なんとか庭で撮った一枚だ。私の着物の帯は乱れ、父は下駄履き姿。狭く荒れ放題の庭には、洗濯物なんかも干してある。

「なんでよりにもよってあんな写真使ったのよ。もっと他にいい写真あったでしょ」
 と、母が嘆いた。

母は不本意だったかもしれないが、私はこの1枚が好きだ。今ではもう存在しない、昔の家の空気感が蘇ってくる。

田舎の古い日本家屋。家族7人が住んでいた。両親が共働きだったため、私は幼少期の多くの時間を祖父母と過ごした。お祖母ちゃんには、裁縫やピアノ、料理などを教わった。

特にお祖母ちゃんの裁縫部屋は大好きな場所だった。たくさんのミシンが置いてあり、お祖母ちゃんの魔法の手からは、洋服でもバッグでも、さまざまな作品が生み出された。

一方、お祖父ちゃんの書斎は決して近づいてはいけない場所だった。重要な書類が山積みされていたからだ。兄や姉は言いつけを守って、あまり近づかなかった。だが、末っ子の私は、どこまで近づけるかのスリルが面白く、たびたび侵入を試みては怒られた。黄色く変色した古い書物の、カビ臭い匂いを今でも覚えている。

はしごのように急な階段も、汲み取り式のトイレも、土間にビニール素材を貼っただけの台所も、決して住み心地のいいものではなかったが、幼い私にとってはすべてが遊びの場だった。天井の木目が女性の横顔のように見えて、こっそり話しかけていたのを昨日のことのように思い出す。

そんな我が家が取り壊されたのは、私が高校生の時だった。既に祖父母は亡くなり、私も高校の寮に入っていた。

新しい家が建つという喜びよりも、昔の家と別れなければいけない寂しさの方が大きかった。小さいころ衝動的に畳に描いてしまったバナナの絵も、中学生のとき隠れて彼と電話した階段も、すべてが壊されてなくなった。不思議なもので、今も夢に見るのは、この家だ。

私には小さい頃から変わらないたった一つの夢があった。それは主婦になること。いつの頃からか、そんなことばかり言っていると「夢見がち」と笑われるようになったので、人前では言わなくなったが、内心では一度もぶれたことがない。

好きな人と結婚して、たくさんの子供に恵まれて、夫の両親とも一緒に住みたいと思っていた。私自身にとってはそれほど楽な選択ではないのだろうが、子供にとっては、お祖父ちゃんお祖母ちゃんと一緒に暮らす方が楽しいということを、誰よりも私が知っている。

褒められたり怒られたりしながら過ごす、祖父母との生活はかけがえのない財産になる。3世代、4世代の笑いの絶えない一軒家。子供たちに与えてあげたいのは、自分が育ったような家だと、当たり前のようにイメージしていた。

しかし、現実はそう甘くはない。私たち夫婦に子供はできなかった。人生とは分からないものだなぁとつくづく思う。夫は転勤族で、2~3年に1度は引越しを余儀なくされた。新しい場所で、さまざまな風習や食文化に出会えるのは新鮮な喜びではあったが、幼い頃思い描いていた生活とはずいぶん違うものになってしまった。職場の宿舎に住んだこともある。賃貸アパートや、高層マンションにも住んだ。そのどれもが『3世代、4世代の笑いの絶えない一軒家』ではない。でも、振り返れば数十年。夫婦2人にしか分からない喜び、哀しみが、すべての家に詰まっている。

今、私の目の前には、私の作った料理を美味しいと言って食べている夫がいる。この光景だけは、何年たってもどこに住んでも変わらないのだと思う。きっと生まれ変わっても私はこの人を選ぶだろう。小さい頃思い描いていた家とはずいぶん違うけれど、この人と過ごす場所が私の家なのだと思う。

2016年4月、私たちは14回目の引越しをする。新しい場所ではどんな生活が待っているのだろう。2人の思い出の家がまた一つ増える。

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