この5年間のうちに、私も弟も結婚して家を出て、
私が生まれ育った家には、両親と年老いた祖母だけになった。
フルタイムで働く両親に代わり、留守番が仕事になった祖母。
実家のインターホンを3回押すと、耳が遠く足腰の弱い祖母がいつも出てくる。
思い返せば、祖母と私は何度となく喧嘩をしてきた。
お転婆だった幼少期は、何をするにも
「そんなことしたら怪我するからいかん」と言われてばかり。
学生の頃は、遅くまでテスト勉強をしていると、
膝が痛いと言いながら階段を上がってきて、「風邪をひくから早く寝ないかん」と一喝。
朝から晩まで「したらいかん」と「しないといかん」のオンパレード。
朝ごはんのパンも、食べないと言っているのに無理やり鞄にねじ込んでくる。
嫁ぐ時に渡された段ボール箱にも、祖母が使っていた裁縫道具とコツコツ集めていた
ボタンや糸、厚紙で作った定規、救急箱、その他にも事前にいらないと断った
たくさんの物が入っていた。
いつもそう。とにかくこちらの都合はお構いなし。
いつまでも自分がやりたいように世話を焼き、
何でも先回りして口うるさく指示をする祖母。
私のためだと分かってはいても、本当はほっといて欲しかった。
傷つけると分かっていたのに、「ありがとう」がずっと言えなかった。
しかし、自分もひとりの親になった今、祖母の気持ちが痛いほど分かる。
以前、祖母の部屋のタンスを見せてもらった時、
私や弟が小さい頃に贈った手紙や絵、肩たたき券、初めて縫ったティッシュケース、
修学旅行のお土産など、本人たちが贈ったことすら覚えていないような物まで、
今もクッキーの缶に大切にしまわれていて驚いたことがある。
私たち孫をたまらなく大切に思ってくれているからこそ、心配で仕方がない。
病気や怪我をしないように、失敗をしないように、悲しい思いをさせないように、
先回りしていろんなことを教えたくなる。
自分にできることは何でもしてあげたくなる。
それでも子供自身の選択を見守り、
その経験を糧にできるようにするのも親の深い愛情だと思うが、
親ではなく「おばあちゃん」だからこそできた、
ただただ純粋な愛情のカタチだったのだと思う。
おばあちゃん、今までごめんね。
今ではひぃばあちゃんになり、実家で子供たちと遊んでくれる祖母を見ていても、
温かい窓辺のベッドで一緒に昼寝をしたり、窓から庭にパンを撒き、
スズメが食べにくるのを待ったり。
時には祖母がハイハイをして追いかけっこしたり。
流行りのおもちゃなどなくても、身近なもので思いもよらない遊び方をして、
子供たちが飽きるまで一緒になって大笑いして、とても自然体で楽しんでいる。
小さい頃の自分や弟もこうして愛情をたくさん注いで遊んでもらっていたのだと思うと、素直にありがとうの気持ちでいっぱいになる。
おばあちゃん、今まで本当にありがとう。
祖母のことが、祖母が待ってくれている家が、私も子供たちもやっぱり大好きだ。
もう耳が遠いのに、4歳の息子が一生懸命練習したピアノを弾く時や、
1歳半の娘が覚えたばかりの歌を歌う時は両手を添えて耳を澄まし、
大きな大きな拍手をしてくれる祖母。
足腰が弱いのに、インターホンが鳴ると杖をついて玄関まで来て、
私たちを『いらっしゃーい』と満面の笑みで出迎え、
『またおいでな』と車が見えなくなるまで見送ってくれる祖母。
世話焼きで口うるさいのは今でも変わらないが、きっと今なら言える。
私から祖母への、心からの『ありがとう』。
祖母にはちゃんと耳を澄まして聴いていて欲しい。
この気持ちが、祖母の耳に、心に、じんわり届きますように。
長い年月をかけ、今こうゆう気持ちになれたのも、『家』という場所があったからこそ。家族ひとりひとりがありのままで向き合い、それぞれの人生の節目に、
楽しいだけでなくつらい時間や経験も共有しながら、
家も家族もカタチを変え、絆を深めてきたからだと心から思う。
1級建築士の父が設計したオシャレな家も、今では至る所に祖母用の手すりがつき、
バリアフリー住宅まっしぐら。
私が家を出たら処分するはずだったピアノも、息子のためにと残留が決まり、
相変わらずリビングを占拠している。
そして、かつて父が家具まで手作りしてくれた子供部屋は、
今では両親の趣味の部屋になり、
今度は孫たち用の小さな手作り家具がいつも出番を待っている。
こうして家族のカタチに合わせ、家のカタチも変化していくのだと思う。
最後に、私の生まれ育った家、今まで本当にありがとう。
これからも、大好きな祖母が自分の足で孫や曾孫たちを出迎え、
一緒に楽しく過ごせるよう、どうかずっとずっと支えてあげてください。