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2019.05.29

逆風の中の革命児たち~バブル崩壊後に進められた三大再開発事業(前編)

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歴史に詳しい人から、いや、そうでなくても、「"革命"というのはそもそも逆風の中で成るものではないのか」というご批判が出るであろう。

承知の上であるが、しかし、1991年から2000年の10年間に不動産業界に吹き荒れた逆風は、例えるなら、サッカーのゴールキーパーが蹴ったボールが逆風に押し戻されて自陣のゴールに入って失点(オウンゴール)してしまう(これは実際に起こった)というぐらいのアゲインストの暴風であった。

そのような環境のもとで革命的なプロジェクトを完成させたという意味では、かえってこの程度の表現は平凡で地味なくらいである。

「大川端リバーシティ21プロジェクト」(三井不動産・東京都・住宅都市整備公団ほか)

どちらかと言えば「もんじゃ焼き」「江戸の街割」に象徴される下町のイメージが強い中央区佃を、"摩天楼都市"に変えた、今思えば誠に壮大なスケールの「感涙プロジェクト」であったが、いざマンションの分譲を始めようとした矢先に不幸にもバブルが崩壊した。そのために特に分譲棟の販売は厳しかった。

当時は大蔵省の「不動産向け融資に関する総量規制」が発動中であり、また分譲棟のほとんどの住戸が高額なために、住宅金融公庫の融資対象外であった。

また、金融機関の融資金利自体が今から見ると驚くほどの高利(1991年には民間金融機関の住宅ローン金利は一時的に8%を超えていた)と、とてもプロジェクトを進めるような経済環境になかったことがわかる。さらに世の中にはバブル崩壊で痛手を負った人たちばかりである。当時はよく事業に踏み切ったなという感想であった。

しかし竣工後にまさに風景が一変する。隅田川の側から大川端の超高層マンション群を撮影した写真が新聞に載ったが、「これは日本なのか」という素直な感動を覚えた。だが、この時点では、このプロジェクトこそが、その後の湾岸タワーマンション開発の嚆矢になるとは、まだ誰も気がついていなかった。

「再開発とはなんぞや」という議論をするつもりはない。タワーマンションを主役に据えた大規模再開発はおそらくこれが第一号であろう。その後の再開発の基準を示した、と言ったら言い過ぎであろうか。そんなことはないと思う。夜間人口4,000人にまで減少していた中央区佃エリアを、人が行き交う街に蘇らせたのである。

私はこのプロジェクトは、「どのように逆風に立ち向かったのか」という一点においてだけでも、実に多くの物語があり、膨大なノウハウの蓄積があると思う。

大川端リバーシティ21の開発地区は、現在の住居表示では中央区佃になっているが、中心的な開発地は旧地名「石川島」で行われたものである。石川島には石川島播磨重工業(株式会社IHI)の大きな造船所(ペリー来航後に水戸斉昭が幕府に命じて作らせたもの)跡地があり、再開発を待つような状況であった。

石川島には江戸時代初期、名前の由来となっている石川家の屋敷があった※1。徳川家康による開城後に、石川島は既に島として存在しており、地理的にも江戸防御における海上の要衝であった※2。幕府による江戸湾の埋め立て事業が、まずこの石川島を取り込むかのように、石川島方面に向かって進められた※3。太平の世となり、このエリア全体が江戸城にとって軍事的な意味が薄れた後も、海運上の重要拠点であったことは変わりなかった※4

長谷川平蔵の趣意によって建設されたとされる『人足寄場』は、江戸時代後期の1790年に建設されており、石川島に人足寄場が存在した時代はさほど長くない※5。人足寄場は、明治維新後は石川島監獄署と名を変え、1895年(明治28年)には巣鴨に移転している。その後は三井合名会社の倉庫(後の三井倉庫)の敷地となり発展する※6。これがこのプロジェクトに三井不動産が係わる経緯である。

正確には三井不動産、住宅都市整備公団(現:UR)、東京都、東京都住宅供給公社の共同・一体開発事業で1986年に着工、スタートを切った。この事業の最大の特徴は、コンセプトを合わせそれ自体が美観を持つような統一感と、当時はまだ珍しい存在であったタワーマンションを基軸に置いたことである。

これが可能となった背景には石川島や佃一帯を三井不動産が所有していたことによるところが大きい※7。石川島播磨重工業の石川島造船所も三井不動産からの借地で操業していた。

大規模な面開発では経済効率を優先する傾向が強く、緑地の確保がなおざりになることが旧来の宅地造成事業や団地開発などでもよく見られた。リバーシティ21では旧「人足寄場」の敷地を佃公園として緑地化することで、緑と「住民の憩いの場」の確保に成功している※8

現在では珍しいものではなくなっているが、当時は全く見たこともない美しい風景、少なくとも以前の佃界隈を知る者にとっては、まさに隔世の感があったに違いない。

多くは賃貸供給されたが、分譲されたマンションは
・リバーシティ21シティフロントタワー(1992年1月分譲、同年8月竣工:最高階数31階建て)
・リバーシティ21スカイライトタワー(1992年11月分譲、1993年2月竣工:40階建て)
・センチュリーパークタワー(1997年9月分譲、1999年1月竣工:54階建て)
の3棟である。(東京カンテイ調べ)

分譲時の価格は◆で示し、その後の坪単価を線で示した。まだマンション市場にバブル期の余熱のようなものが残っていた1992年にはかなり高額であったため、1992年に分譲された2物件の「RC21シティフロントタワー」と「RC21スカイライトタワー」は特殊な事例を除けば分譲時の坪単価を上回ることがなかった。

しかし1997年に分譲された「センチュリーパークタワー」は、反対にまだデフレから脱していなかった2004年と2005年に分譲時の坪単価を下回ったのみで、竣工直後の2000年とこれらの年以外はいずれも分譲価格を上回る坪単価で中古流通している。既に築20年を経過したが80m2を超えれば1億円以上の値がつく状態だ。

また2019年4月30日時点の中古売事例の坪単価は「センチュリーパークタワー」が437.2万円(築20年)、「RC21スカイライトタワー」が356.6万円(築26年)、「RC21シティフロントタワー」が324.8万円(築27年)となっている。

築年数による価格差というよりも、最高階数によって価格差が決定しているように見られ、2011年以降、ほぼこの序列が維持されているのも興味深い。(東京カンテイ調べ)

センチュリーパークタワー

このプロジェクトの歴史的な意味を考えてみよう。

1.「タワーマンション群都市」の原風景を創造した

1992年までタワーマンションによって都市を造るというコンセプトのプロジェクトが皆無であったわけではない。1991年には神戸市東灘区で、タワーマンション群の形成を意図した「六甲アイランドシティ」の「イーストコート3番街(41階建て)」が竣工している。

しかしこちらは再開発ではなく、純粋な開発、新規開発である。この違いは認識しなければならないだろう。

これまで縷々語ったように、石川島の開発は長い歴史の上に成された大規模再開発である。工場と倉庫が立ち並ぶ東京湾の灯台がある島は1992年を境に、誠に月並みな表現ではあるが、ニューヨークのマンハッタン島のように変化した。

その後の再開発はメインの住居棟をタワーマンションにすることが常識化するのである。一連の規制緩和政策の一環として建築規制緩和が図られた1990年代の終わりから、全国規模で30階を超えるタワーマンション建設が一気に加速したが(下グラフ:東京カンテイ調べ)、特に建築しやすい湾岸の元工・商業地域に作られる。

これらの風景には海や川などの水があり、水辺に映える佇まいとして、常にリバーシティ21の風景を思い返す、そんな存在になっている。原風景の創造が成されたと言っても大げさではないと思う。

全国圏域別 20階建て以上のタワーマンション累積棟数推移(竣工ベース)

2.土地の利用形態を大きく変え中央区佃に居住エリアを創造した

東京都中央区は、佃エリアに限らず定住人口の減少に悩んできたが、1993年7月と1997年7月に相次いで地区計画を見直し、容積制限の緩和政策を打ち出して、「定住人口の回復」に取り組んだ。

これはリバーシティ21プロジェクトの着工後の決定であることを重視すべきである。通常は建築基準法や都市計画法の改正(規制緩和)によってプロジェクトが進み、追い風になるケースが多い。しかし中央区の規制緩和は大川端リバーシティ21プロジェクトの効果を見て導入されたものである。

リバーシティ21の2棟が竣工された後も中央区の人口は減少を続けたが、1997年にようやく歯止めが掛かり、1998年以降増加に転じた。その後は1年たりとも足踏みすることなく増加を続けた結果、20年後の2018年には156,823人と1997年比で2.2倍になっていることが中央区の資料と総務省住民基本台帳の人口数からわかる。

ちなみに、1997年はリバーシティ21の「センチュリーパークタワー」が分譲された年で、この物件は1999年1月に竣工している。(東京カンテイ調べ)

なお、東京都中央区は定住人口の一定の回復が達成されたという理由で、容積制限の緩和などの地区計画を2019年7月以降見直し、打ち切る予定である※9

東京都中央区の人口(定住人口)の長期推移(「中央区人口ビジョン」webサイトより)

3.超高層階に住むという新たな住まい方を示し後のブームへの流れを生んだ

私はこの当時のマンション市場においてタワーマンションが、決して現在獲得しているような「人気商品」ではなかったと記憶している。超高層マンション建築というと多くの反対運動が周辺から起こり、「日照問題」を争点に裁判になったケースもある。住まい方という点においても超高層マンションに慣れていない面が災いして、妙な「社会的警戒感」が存在したのである。

すなわち、人間の心理面や子どもの発育・成長面への影響に関する根拠なき懸念※10、「高所平気症」(子どもなど人が高所を怖がる感覚を失うこと)※11なる造語の誕生等々。このような説がまっとうな学術研究機関から出てきたのにはある種の驚きを禁じ得なかった。

しかし現在は、反対の意味で「高所平気症」になったのである。2000年以降のタワーマンションブームは既に30階や40階に住んでいる人の評判が評判を呼んだ側面があるだろう。経済的逆風だけでなく社会的意識の「逆風」をもはね除け、新たな道を切り開いた同プロジェクトの意義は大変大きなものである。

次回は残り2つのプロジェクトである「恵比寿ガーデンプレイス再開発」と「同潤会代官山アパート再開発」を取り上げる予定である。

(つづく)

参考文献
※1 志村秀明著『月島再発見学-まちづくり視点で楽しむ歴史と未来―』(アニカ)35ページ
※2 同上43ページおよび48ページ
※3 同上49ページ
※4 同上45ページ
※5 同上59ページ
※6 同上61ページ
※7 志村秀明著『東京湾岸地域づくり学 日本橋、月島、豊洲、湾岸地域の解読とデザイン』(鹿島出版会)53ページ
※8 同上52ページ
※9 東京都中央区のwebサイト「地区計画等の変更について(平成31年4月更新)」https://www.city.chuo.lg.jp/kankyo/keikaku/tikukeikaku_kinoukousinngata/tikukeikaku_oshirase.htmlを参照
※10 逢坂文夫氏(東海大学医学部)織田正昭氏(東京大学大学院)らが主張している
※11 財団法人未来工学研究所が1985年に実施した調査で、4階以上の高層マンションに住む小学生342人に対して行ったアンケートにおいて、7割以上が「ベランダや窓から下を見ても怖くない」と回答したことを根拠に、同研究所の資料情報室長であった佐久川日菜子氏が名付けた考え。
僭越ながら敬称は省略いたしました。

井出武(いで・たけし)

井出武(いで・たけし)

1964年東京生まれ。89年マンションの業界団体に入社、以降不動産市場の調査・分析、団体活動に従事、01年株式会社東京カンテイ入社、現在市場調査部上席主任研究員、不動産マーケットの調査・研究、講演業務等を行う。

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