【恵比寿】日本の工業化とビール造りに寄り添ってきた「恵比寿」の歴史

恵比寿という地名は、この地に設けられたビール工場の製品名に由来しています。このビール工場は1985(昭和60)年に閉鎖され、跡地の再開発により魅力的な街が誕生しました。ビールの街から高感度なファッションタウンへ進化を遂げた恵比寿の歴史を振り返ります。

現在の恵比寿エリア周辺には、大名の下屋敷が建っていました。かつて伊達町と呼ばれていた恵比寿3丁目付近には、かつて宇和島藩の下屋敷がありました。宇和島藩を治めていたのが伊達家だったことから、この名前が付けられたと言われています。現在でも、恵比寿2丁目交差点の別称が「伊達坂上」であったり、恵比寿3丁目に「伊達坂」が残っていたりと、この地の歴史は地名に色濃く残されています。
明治以降になると、この地に日本麦酒醸造会社(現・サッポロビールの前身)が工場用地を取得し、1890(明治23)年には「恵比寿ビール」という名のビールが発売されました。1901(明治34)年には、ビール積み出し用の貨物駅が開設され、1906(明治39)年には旅客駅も開設されることになります。この駅周辺地域が「恵比寿」と呼ばれはじめ、それが定着していったこともあり、その後、地名も恵比寿となりました。
かつて大名の下屋敷があったことからもわかるように、恵比寿周辺は昔から高級住宅街として知られています。特に、JR山手線「恵比寿」駅から「目黒」駅までのエリアには豪邸と形容するに相応しい邸宅が並んでいます。
徒歩圏内に「恵比寿ガーデンプレイス」などの商業施設がある一方で、閑静な落ち着いた住環境が広がっているのも人気の理由でしょう。

周辺の都市化が進むにつれて、「サッポロビール恵比寿工場」を移転し、再開発する構想が持ち上がってきました。1985(昭和60)年、サッポロビールは恵比寿工場の閉鎖を決定し、同時に跡地の再開発を進めることとなります。1988(昭和63)年には恵比寿工場が千葉県船橋市に移転し、1991(平成3)年に「恵比寿ガーデンプレイス」の名で再開発の工事がはじまりました。

「恵比寿ガーデンプレイス」は1994(平成7)年に開業を迎え、“豊かな時間”“豊かな空間”をテーマに、全体がヨーロピアンテイストで統一されていました。当時、最先端の街として注目を集めました。また、敷地の約6割を緑豊かなオープンスペースとし、施設内の厨房等で発生する排水を再生利用したり、廃熱の有効利用が可能になるコジェネレーションシステムを導入したりするなど、環境を意識した街づくりの先駆け的存在ともなりました。
現在は「はたらく、あそぶ、ひらめく。世界がちょっと、広がるところ」を新たなブランドコンセプトとし、オンとオフがシームレスにつながる楽しみを提供してくれる場となっています。時代の流れとともに進化を続ける商業施設です。

「恵比寿ガーデンプレイス」には生活を豊かに彩るさまざまなショップや施設が軒を連ねています。お腹も心も満たしてくれるレストランやカフェ、食料品店もワンランク上の上質な店舗がそろいます。ハイセンスなファッションや雑貨を扱うショップも多いです。
本格的な写真映像の文化施設として設けられた「東京都写真美術館」、単館作品を中心に上映しクリエイティブなインスピレーションを得られる映画館「YEBISU GARDEN CINEMA」、シティホテルの「ウェスティンホテル東京」のほか、「サッポロビール」の本社をはじめとしたオフィスやマンションもあり、ショッピングやアミューズメント、仕事や暮らしの場として多くの人々に親しまれています。
クリスマスの時期に実施されるイルミネーションは、煌びやかで冬の風物詩として定着しています。そのほか、夏の野外シネマイベントなど、多彩な催しが企画され、各地から人が訪れる人気スポットに成長しています。
「恵比寿」駅はJR山手線、埼京線、湘南新宿ライン、東京メトロ日比谷線が乗り入れています。複数の路線が利用でき、首都圏の各エリアへの移動に便利です。
JR山手線を利用すれば、「渋谷」駅まではわずか2分ほど、「東京」駅まで23分ほどでアクセスできます。JR湘南新宿ラインを使えば「新宿」駅まで8分ほど、「池袋」駅まで14分ほどとビッグターミナルへの移動も容易です。
首都高「天現寺」入り口からは、銀座まで7キロ、北池袋まで16キロほどと車の移動もしやすい環境となっています。
大都市の利便性、ショッピング、グルメ、エンターテインメントを生活圏内に備えながら、落ち着いた住環境が享受できる。それが恵比寿エリアの魅力なのです。
- 掲載日
- 2025/06/26
本記事は、(株)ココロマチ が情報収集し、作成したものです。記事の内容・情報に関しては、調査時点のもので変更の可能性があります。