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あなたの「家と家族に関する思い出」エピソードと写真を大募集!

第4回 「ありがとう、わたしの家」 キャンペーン

「家と家族に関する思い出」入賞エピソード発表!

応募期間
2016年1月13日(水)〜 3月8日(火)

第3回入賞作品
ショートムービー

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多くのご応募をいただき、ありがとうございました。
みなさまからいただいた「家と家族に関する思い出」のエピソード・写真の中から
入賞エピソードを決定しましたので発表いたします。

思い出に残る「おうち」をノムコムで探そう

父から、じいじへ

父から、じいじへ

こてつ さんの投稿作品:

父は、子煩悩でした。春はお花見、夏はキャンプ、秋は紅葉狩り、冬はスキーと一年中どこかへ連れて行ってくれました。
最近は、「もう年だし、どこに行くのもめんどくさいな・・・。」と言っていた父ですが、孫が誕生した途端、沢山の旅行本を買いパソコンをカタカタ・・・。
旅行のしおりまで作る徹底ぶりです。
鍋奉行ではなく旅行奉行です。「父」の時より「じいじ」になったほうが、旅行癖がグレードアップしているように思います。

VIVA昭和

VIVA昭和

万屋 さんの投稿作品:

幼少時代に6度の引越しを経験した私にとって最も思い入れのある家。
時は70年代半ば、キャンディーズやピンクレディーといった歌謡曲全盛の頃、父の会社の都合で転勤を繰り返し、関西の古くて狭い一軒家に移り住みます。
私にとって3度目の転校となり、新しい学校で、よろしくお願いしますと頭を下げることに、ほとほと嫌気が差しており、友達が出来てもどうせまた転校することになるのだろうと幼いながらも覚悟していました。口数が少なく厳格な父は大変気が短く、言うことを聞かないとすぐに平手が飛んできます。そんな父でしたが、仕事帰りにケーキを買ってきてくれたり、週末にはラーメン屋、休みには旅行に連れていってくれるなど家族サービスを怠らない人間でした。当時は会社の保養所施設を格安料金で利用できたのでとてもラッキーだったと思います。
家は家族4人で住むには決して広いとは言えず、親がクリスマスプレゼントの隠し場所を探すのに苦労したようで、あるクリスマスイブの前日、風呂場脇の重ねられたバスタオルの下からプラスチック製の野球バットが出てきて、何も知らない私は、お母さん何これ?と尋ねると慌てた様子でそれを取り上げる母でした。翌朝、弟の枕元にそのバットが置いてあった時は、子供心に何か見てはいけないものを見てしまった罪悪感にかられたのを覚えています。

弟と室内でかくれんぼをするにも、隠れる場所がない。狭くて古い家に友達を呼ぶのも恥ずかしい。
毎日真面目に働いてくれていた父でしたが、若くで結婚し2人の子供をもうけたので決して楽な生活とはいえず、欲しいものを買ってくれとはなかなか言い出せない雰囲気でした。
14インチの小さなテレビで、当時大ブームだったプロレスを父と見るのが楽しみで、レスラーが大技を繰り出すたびに、父の体もつられて大きく上下左右に動くのがおかしくて仕方がなく、テレビのチャンネルつまみが外れれば、ペンチでチャンネルを変えたり、映りが悪くなれば横から叩いて直したりしたものです。
おばあちゃん(母方)が時々家に泊まりに来ましたが、義理の母がやってくるといつも以上に無口になる父が何だか可愛らしく見えました。
当時の家にはクーラーがなく、団扇と扇風機で何とか凌いでいたものの、暑がりの父に限界がきたのか、夏のボーナスでクーラーを購入することになったのです。古くて狭い部屋がホテルの客室になった瞬間でした。
夏の楽しみと言えば、アイスクリーム。月に一度はレディボーデンのアイスクリームを買ってきてくれて、それをコーンカップに入れて食べるのです。
ここぞとばかり、カップが割れるまでアイスをぎゅうぎゅうに押し込みました。
関西での滞在は思ったよりも長く、お陰で楽しい学校生活を送れ、友達もたくさんでき、もう引越しはないかもしれないと安心していた矢先、会社から転勤命令が下されます。
私の小学時代、通算4度目となる引越しでした。私の人生においてこの時が最初のターニングポイントになったと思います。
あれから30年以上経ったある日。
インターネットの地図検索でこの家を調べてみると家は跡形もなくすっかり取り壊され、小さな駐輪所になっていました。
改めて見ると、よくこんな狭いスペースに家族4人暮らしていたものだとびっくり。
今でも家族で集まると、この家での懐かしい思い出話に花が咲きます。
あの頃は、携帯電話、カーナビ、コンピュータすらありませんでしたが、何不自由なく普通に暮らしていたんですよね。古き良き時代昭和。
世の中がどんなに便利なもので溢れようと、全ての人の物欲を満たしたり、心を豊かにすることはできません。人間は人と人との触れ合いによって幸せを共有する生き物ですから。
あれほど厳格だった父も、我々が結婚し、孫ができると、普通の優しくて甘いおじいちゃんになりましたが、それでも私には昔の厳しい父のイメージがなかなか拭えず、彼と話すときはついつい敬語になってしまうことが多々ありました。
家族のために必死に働いてくれた父。
人一倍厳しくそして優しかった父。定年後、お互い腹を割って話すようになり、私には度重なる転校で色々と苦労をかけてすまなかったと謝っていましたが、私以上に大変な思いをしていたのは父に他なりません。もしあの時、彼が会社を辞めていれば今こうして思い出深い写真と文章を書いている自分はなかったでしょうから。
年に一度は私の運転で、各地の温泉に連れて行き、できる限りの親孝行をしました。
父が亡くなる前日、彼は全く話せない状態でしたので、耳元で、今まで本当にありがとうございましたと一言告げると、2回小さく頷き、閉じた目から涙が零れ落ちます。
痩せて2回りも小さくなっていた父でしたが、自宅で家族に見守られながら最期を迎えることができて本当に幸せだったと思います。懐かしい昭和がぎっしりと詰まったこの写真が大好きです。

私の育った家

私の育った家

クニオ さんの投稿作品:

私の実家と私は歳が同じだ!
家ができた年、私も生まれた年だ。1986年
いろんなことがあった。
皆でテレビを見たり、家族で誕生会。お爺ちゃんとお婆ちゃんと一緒に寝たり、たくさんの思い出をくれた家。

社会人になった私。私は実家から離れ一人暮らしをしていた。
東北大震災が起きた、海から近かった実家。新聞の一面を見て、絶望した。

先輩に車を出してもらい実家へ向かってもらった。道は荒れ果てて、通れない道が多かった。遠回りをして実家へ向かった。

家が見えた。玄関の外で弟が瓦礫を掃除しているのを見て安心した。
無事だ!

その後、家族の無事を確認した。
家は半壊状態だったが、それでも私たちを守ってくれた。

それから月日は経ち。
今年私は30になる。実家も30歳だ。
結婚もした。これから自分の家族を作っていく。

家を作るのは、まだ先だが、自分が育った、実家のような家を作りたい。
自分が帰りたくなる実家のような温かい家だ。

子どもに、自分が実家に思ったようなイメージを、自分が建てる家にイメージしてもらいたい。

今年も孫がやって来た

今年も孫がやって来た

なお さんの投稿作品:

我が家には子供が3人いました。
しかし、今はもう大きくなって、それぞれ都会に出た今は、家には妻と、年老いた介護を要する両親の4人の年寄りだけの活気のない寂しい家になってしまいました。
子供は何とか成長し、大きくなれば、手がかからなくなり、それぞれ自立して親は楽しい老後を送るだけと思っていましたが、現実はそんなに甘くなく、成人すればしたで、さまざまな心配や気がかりなこともあったりして、人生はいつも心配の連続だなと思っています。
そんな中で年に一度は必ず、地元の秋祭り(片貝祭りと言って世界一の四尺玉の上がる祭りです。)には東京で暮らす長男家族が孫を連れて遊びに帰って来てくれます。
そうすると我が家は、昔のように活気が出てきて、この孫たちを中心に笑いと明るさを取り戻します。
今はこの孫たちがすくすくと成長してくれることがささやかな楽しみになっています。
孫が帰った後は、また会える来年の祭りを待っています。

あれから3年

あれから3年

ねこまる さんの投稿作品:

子供の誕生と同時に建てた家。子供と一緒で、今年で3歳になりました!
毎日子供の成長とともに少しづつ傷や思い出が積み重なっていくこの家で、家族との楽しい時間や一人のくつろぎ、趣味の時間を楽しんでいきたいです。

撮ってホントによかった

撮ってホントによかった

ふじつぼ さんの投稿作品:

家族で旅行へ行った、受験や、入院、いろんな節目がある。
でもやっぱり一番の節目って結婚やないかな。
今まで両親って言えば2人やったのに4人になるんやからね。
で、その4人が仲良くなったら更に最高。
ちょうど僕らのところがそうやった。
行事があればどちらからというわけでもないのに一緒に行動、僕らの知らんところで行ってたりもした。

写真は我が家に招待した際のワンショット。
もう4人で行動ってのは無理になったし、これからは行動するにも無理な体力っていうのも出てきてる、でも結婚して4人が家族となって出会えた、妻との出会いだけでなく大きな輪として広がった、こんな相乗効果のような関係ってほんとに結婚を了承してくれた妻に感謝。

ネタになる家

ネタになる家

山の民 さんの投稿作品:

私の家はとても古い。築100年近い家は、少しずつリフォームされながらここまできた。
曾祖父が建てたというこの家は、木造で段差が高く、隙間も多い、典型的な「田舎の家」という感じである。
小学生の時は、友達のレンガ造りのかわいいお家や真っ白な洋館風の家に憧れたものだった。
しかし、高校三年の今になってみるとこの家で良かった、と思うことがあるの。
「ネタ」になる家ということだ。
例えば、動物。隙間が多いこの家には、天井に動物が入り込むことも珍しくない。天井からガタゴトと音が聞こえるのは、日常茶飯事である。家族で天井の同居人(?)にちょっと話しかけてみる、ということもある。
また、二階へ続く階段はこう配の急な階段だ。頂上で足を踏み外すと、そのままお尻で滑り降りていくことになる。しかもゴールは段差が50センチほどの玄関だ。
こんな話を友達にすると面白がられる。もちろん、家族で話して笑える。古いけれど、綺麗ではないけれど、面白ければそれでいいと思える。
こんな家も最近のスマホでとると、すごく綺麗に映る。それもまた、私の「ネタ」になる。

第二の我が家

第二の我が家

七海 麗 さんの投稿作品:

前妻を亡くした現在の夫の所へ、私が嫁いで来て、4年がたった。
私達が再婚する時に、一番反対をしていたのが、夫の娘(現在32歳)。
彼女にとって、母親が亡くなってまだ2年しかたっていないのに、再婚したいという父親が許せなかったのだ。

母親が亡くなるとすぐ、彼女は家を出た。
女の子だからといって、家事を押し付けられるのが、イヤだったのだろうと思う。
家に残った父親と二人の息子は、男所帯を2年間、やっとの思いで潜り抜けて来たらしい。
結婚相談所の紹介で、57歳の私が嫁いで来た時に、家の中の有様を見て、それがわかった。
男だけで、自営業をしながら家事全般をやって行くことは、もう限界に達していたため、父親が再婚に踏み切ったというわけだ。

私が嫁に来てからも時々、用事があって顔を出す義理の娘は、2年もの間、私とは目も合わせず、ずっと無視を続けて来た。私にとっては、辛い年月だったが、私はめげなかった。
事あるごとにプレゼントをし、彼女が来る度に、できるだけお土産を持たせるようにした。
そんな努力の甲斐あってか、彼女が結婚をし子供を生むと、私に対する態度が、徐々に変わって行った。
私の目を見て話をしてくれるようになり、生まれた子供を連れて、遊びにも来るようになった。

二人いる私の娘が、彼女と歳が近いので、段々に仲良くなって行き、我が家にみんなが集まるようになった。
4人の孫たちも歳が近く、全員集まると、まるで保育園のような騒ぎになる。

この家に嫁いで来る前、私はアパートでひとり暮らしをしていた。
クリスマスイヴと大晦日は、さすがにひとりの寂しさが身に染みて、温かい家族に憧れていたものだ。
そして今、ようやくその「温かい家族」に包まれるようになった。

人間は、人との係わり合いが大変なことは充分わかっていながらも、ひとりではいたくないのだと思う。
そして私も、母親を亡くした義理の娘に対して、温かい家族になってあげたいと思う。

感謝の木

感謝の木

渡会次郎 さんの投稿作品:

「毎年花が咲いて実がなって、季節の訪れが感じられる梅の木がいいわ」と妻。
「葉が枯れ落ちる木は冬が寒々しい。いつも青々としている常緑樹の方がいい」と私。
「お前の学生時代には仕送りもせず苦学させた。気持ちだけだけれど」と故郷の母から贈られた新築祝いのお金で、記念樹を庭に植えることにしたのだ。

植木専門店で妻は迷うことなく梅の木。
私はと言えば、つい見栄を張ったばかりに「旦那、いいのがありまっせ」と五葉松を勧められたが、猫の額ほどの庭には分不相応、身の丈に合った柘植の木を購入した。
あまり立派でもない木を手にする客に興醒めな顔をする植木屋のオヤジなど知ったことではなかった。私と妻は庭のある家を持てただけですこぶる満足だった。
翌春、梅の木は紅い花を咲かせ、初夏には数個の実がなって、妻はそれで梅酒を作った。
「これは酒だ。お前に飲ませるわけにはいかん」と乾杯する私と妻を、中学生の息子が笑った。
「そんな僅かな実で梅の味などするのか」
一方、柘植の木の成長は遅々としていた。
「地味でつまらない木ね」と妻はけなすが、私には密かな夢があった。やがて息子が結婚し、産まれくる初孫が姫であったら、成人式の日にその木から櫛を作ってやろう――まさに夢のような企みだった。

それから幾年月。
バイトで資金を稼ぎながらミュージシャン目指して歌うキリギリスであったドラ息子も無事定職に就き、結婚もし、孫も産まれた。
そして、庭の梅も柘植も毎年剪定しなければ隣家にはみ出すほど大人になったのだが、そこに東日本大震災が襲いかかってきた。
「オカアもオトウも、家まで無事か」と激震に耐えて受話器の息子を安堵させた家の庭から、夫婦で植えた記念樹は姿を消した。福島原発から飛散した放射性物質のせいだった。
「木の根元辺りの放射線量が一マイクロシーベルトを超えている」と青ざめる私に、妻が躊躇することなく決断した。
「庭木を全部切り倒して除染しよう。そうしないと、この家にミウ(二歳になった初孫)を安心して呼べないわ」
今、梅と柘植の木はもちろん、陽当りを良くするため紅カナメの垣根も無くなった庭にはプランターが幾つも並んでいる。孫のために家庭菜園と花壇にしたのだ。
「トマトにキュウリにピーマンか……ケチ臭い庭になったなあ。庭に木がないと、何だか裸になったようで落ち着かないよ」
久し振りに来訪して残念がる息子に、私は胸を張った。
「孫のためなら木なんてどうでもいい。ミウに無農薬有機栽培の野菜を作って食べさせたい。チューリップやら桜草を見せたいんだ。――子供は何ものにも代えがたい。お前が幼稚園の頃に難病で死にかけ、『ボク、ガンバルヨ』とか細い声で呟いたとき、子供は生きているだけで親孝行と思ったものさ」
「我が子が見舞いに来ても石のように表情一つ変えない老人が隣のベッドにいただろ。俺が『早くよくなってね』と退院の挨拶をした途端、突然その頬にスッと涙がこぼれ、『君はいい子だ』と微笑んだ。そのときは老人の気持ちがさっぱり理解出来なかったが、ミウが産まれてから分かるような気がする。そのときのオヤジの気持ちもさ」
そんな父子のやり取りに妻が相槌を打ちながらも、辛辣な言葉を加えた。
「どんなにいい子でも財産が人を狂わせることがあるのよ。付き添いのお婆さんが嘆いてた。『ウチの子供らときたら、まだお爺さんが生きてるのに遺産相続で揉めてんだからねえ』って」

庭に残留した放射性物質を危惧して、市販の培養土を入れたプランターで育てる野菜は地植えほど立派ではなかったが、孫を喜ばせた。「どのキュウリが一番美人かな?」と首を傾げ、「ジイジ、トマトの葉っぱでアブラゼミさんがジイジと呼んでるよ」とオヤジギャグまで使う孫――私はこの子が二十歳になるまで絶対に死んでなるものかと意気込みつつ、柘植の櫛は諦めてしまったが、代わりに何か長寿の木を庭に植えたい誘惑に駆られる。自分の決意表明のためだけではなく、少々老化した家に感謝の思いも込めて。

家族のカタチ

家族のカタチ

りょう11 さんの投稿作品:

人生で1度はしてみたいと思っていたシェアハウスに住み始めた。

新築で広くてキレイな、理想のシェアハウスがすぐに決まり、住み始めた。

安心の女性限定シェアハウス。

3階建てで、1階に広いリビングとキッチン、
2つの浴槽付きお風呂と3つの洗濯機があり、
そこがみんなの共有スペース。個室の部屋数は全部で11部屋ある。

私よりも先に住んでいた韓国人とアメリカ人は訳あって出て行ってしまったけど、
すぐに新しい日本人が二人入居して、私が一番の古株になった。

そこから約半年間、3人だけでその広い家に住んでいたので、
不動産屋さんが外国人の受け入れが出来るように
ゲストハウスとして宣伝した結果、夏の3ヶ月で50人程の旅行者が
入れ替わり立ち代わりやって来た。
その間も、週に一度、かかさず共有ルームの掃除をした。

それはそれで楽しかったのだけど、
冬になり、ようやく部屋が住人で満室になった。
正直、はじめは少し不安があった。
他人同士が住んでけんかが起こらないのかと。

しかし、家に帰ると、必ず誰かがリビングにいて、
「おかえり」と言ってくれる。
休みが合うと、一緒に家でごはんを作って食べたり、
住人の外国人とは母国語を教え合ったり、
なんでもない日常の家での時間が、私にとってはすごく新鮮で、
すごく楽しくて、すごく落ち着く。

私がたまたま出会ったこの家は、1年前まで出会ったことのなかった、
年齢も、国籍もバラバラの彼女たちと私とを繋げ、
憩いの場を今も提供してくれている。

年末には、家にいる人たちと年越し鍋パーティー!
一緒にご飯を食べて、喋って、笑って、忘れられない楽しい時間を、
私の第2の家族と過ごした。

仕事の都合で、来年の年越しには、私はもうここにいないのだけど、
彼女たちと一緒に過ごしたこの家での思い出を、私は一生忘れない。

私がこの家を出るその日まで、そんな思い出をかみしめながら、
家に「ありがとう」の気持ちを込めながら、今日も私は掃除をします。

昭和の香り

昭和の香り

star さんの投稿作品:

私はこの家と共に、33年目の春を迎えようとしている。
私の両親は、私が産まれる二か月前にこの家に引っ越してきたらしい。
会社の社宅から、念願のマイホームである。

周りには畑しかなく、次第に住宅が数軒建ったらしい。
現在では私の家を含めて、5軒の家が並んでいる。
33年の間に、住む人が入れ替わったり、近所にコンビニができたりと、
周りの様子は変化してきた。
しかし、5軒の家は変わらずに建っている。

私の家の屋根はオレンジ色。私が幼稚園の頃、好きだった色もオレンジ色。
母が言うには、絵を描くときは、いつもオレンジ色を選んでいたらしい。
自分の家の屋根の色を見て、いいな、と思ったのだろう。
きっと私はこの家が好きだったのだと思う。

昭和の時代に建てられた、一軒家。
今のモダンな家とはかけ離れているし、作りも古臭い。部屋だって全部畳だ。
そんな我が家も、廊下は軋むし、玄関のドアは昭和柄だし、
壁に穴が開いているし、で、数年前にリフォームをした。

家の外壁も綺麗に塗り直し、廊下も張り替えた。
ドアだってスタイリッシュな形のものになった。
しかし、キッチン、いや、キッチンと呼ぶには格好良すぎる、台所。
ここだけは、リフォームをしていない。

母はリフォームを強く望んでいるのだが、
父は食事を作ることにあまり興味がない人で、
台所など、食べられれば、それでいい、という考えのようだ。

母は毎日手料理を作っているので、収納スペースが欲しいとか、
流行りのシステムキッチンに憧れるとか、そもそも狭すぎる、とか、
様々な要望があるようだ。
確かに、他の部分をリフォームしたので、
台所だけが昭和の香り漂う作りなのだ。

当時流行したという、緑色のラック。
ガス台の下にはフライパンが重なって入っている。
鍋たちの並んだ手作りの棚は、歪んでグラグラしている。
換気扇だって、つけたら「ゴォーッ!」と大きな音を立てて、
話も聞こえなくなる。
床も、花柄で埋め尽くされた、如何にも古い床で、
油が飛び散って焦げが残ってしまっている。
しかし、使いづらくて狭いこの台所も、
家族で囲んできた食卓の歴史を思い出すと、感慨深いものがある。

まだ幼かった弟が、椅子に座って、
食べ物を持ちながら眠りにふけってしまったこと。
私が椅子に座ったら、四人では狭すぎて、
一段下がったごみ置き場に椅子の片足が落ちて、転んでしまったこと。
冬には鍋を囲んで熱い、と言いながら食事をしたこと。
昭和から平成へ、思い出が引き継がれている。

古い家の温かさ

古い家の温かさ

木ノ口かたし さんの投稿作品:

「古い家は温かい」と聞いて、「?」と思うヒトは、古い家を知っているヒトです。
そう、古い家は寒いのです。
何故なら昔の家は夏のことを第一に考えて、とにかく夏涼しければ良い、
という作りになっているからです。

私たち家族が借りている家は築90年を過ぎていて、
特に改築もしていないので筋金入りの寒い家。

今年、何十年に一度、とかいう大寒波がやってきて、
寒さに震え上った日の夜のこと。あまりにも寒いので、
普段は二部屋に分かれて寝ている私たち家族6人、
3つの布団に身を寄せ合って眠ることにしました。

そんな寒い日には、明け方になると冷気が布団の上からも感じられるはずなのに、
その時はいつまでもポカポカと温かかったのです。

私の右隣に寝ているのは4歳の息子、左隣に小4の娘、
その隣には夫、息子の隣には高校生と小6の娘たち。
みんなの体温が集まると、こんなに温かいものだということを知りました。

そして布団の中で私は「人間って温かい」「家族って温かい」ということを
思いました。それは頭で考えた言葉ではなく、体の中から自然と湧き出てきた
ような言葉であり、強烈な印象を私に残しました。

よくよく考えてみるに、この家は古くて狭いが故に、
私たち家族をいつも一つの部屋に集まるように仕向けてくれているのではないか
と思うのです。

娘たちは、とかく古くて狭いこの家をあまり評価せず、
現代風のシャレた家への強い憧れがあるようです。
その気持ちも本当によく分かる私ですが、
娘たちがいつかこの家を出て行った時に思い出すのは、
一つの部屋に集まって過ごす家族団欒や、
身を寄せ合って眠った寒い夜のこと、のような気がしてなりません。

広々として、常に快適な気温が保てるような現代の家では味わうことの出来ない
「古い家の温かさ」を思い出すのではないか、と思うのです。

私たち家族が割と仲良く、多感な年頃の娘と父親でさえも良い関係でいられるのは、
ひょっとするとこの古い家のおかげかもしれません。

いつか成人した娘たちから、
この家を評価する言葉を聞きたいものだ、と私はひそかに思っているのです。

幸福の木

幸福の木

三郎 さんの投稿作品:

「どうしたの? そんなもの買ってきて」と、妻が訝しげな顔をする。
「うん、ちょっと」と、曖昧な返事をする私。
ホームセンターで気紛れを起こして私が手にしたのは、
鉢植えの『幸福の木』だった。
リビングの出窓にその三代目を置いて、私は来し方を振り返る。

初代の幸福の木は新築祝いに友から贈られたものだ。
「縁起物だから」と差し出す友に、私は大仰に感謝した。
「今日、ニラが三束で五十円だ」行きつけのスーパーの安売り情報を職場で
耳打ちする友は極端な吝嗇家(りんしょくか)で、
彼の住む家は庭木がジャングルのように生い茂り、
近隣から『お化け屋敷』と揶揄されていた。

「あいつ、相当貯め込んでいて、あれは泥棒よけのカモフラージュさ」
友を庇う私に頷きながらも、妻は首をひねったものだ。
「独り者でしょ。貯金もあの広い家屋敷も将来どうするのかしら?」
友情の証でもあるその木は健やかに成長したが、
木にまで縁起を担ぎたくなるような不幸なことが何もなかったこともあって、
「花が咲かないのね」、「邪魔物だな」と邪険に扱っているうちに
枯れてしまった。

二代目は定年退職の日、教え子からプレゼントされたものだ。
尺八教室に通う生徒の伴奏で『仰げば尊し』の合唱
「やった、鬼の目にも涙だ!」とはしゃぐ悪ガキ達を、
勤続四十一年、『男は人前で涙を見せぬ』を通してきた私は怒鳴りつけていた。
「バカ野郎、コンタクトにゴミが入っただけだ!」

これは粗末に扱えぬとこまめに世話を焼いたが、二代目もまた枯れてしまった。
奇しくも私の還暦の年に産まれ、私と同じ蠍座の初孫のために
出窓が旬の鉢花で占領され、庭に追い出されたからだった。
妻が趣味で集めたピエロの人形を出窓に並べ、
季節の花で飾って「ねえねえ、お花でおウチが春になった!」と手を叩く孫、
『春の小川』を電子ピアノで弾く我が家のお姫様に私はぞっこんなのだ。

四十歳で家を新築するとき、我が家には逆風が吹いていた。
不慮の事故による私の入院に出来の悪い息子の進学問題、妻の更年期などなど。
その逆風をはねのけて、マイホームが福をもたらした。

家族で一致団結して家を守ろうとする覚悟が生まれ、
息子は無事公立高校に合格、私も一段と仕事に馬力がかかり、
妻もパートで生き生きと働くようになった。
ところが、退職金で家のローンを完済、五年間の再就職期間も終わり、
悠々自適、自由の身になった今、
私はふと幸福の木の三代目を買う気になったのだった。

……思えば、人生の大きな節目にその木は我が家にやって来た。
そして、幸福の最中に枯れていった。
幸福の女神は前髪はフサフサで掴みやすいが、
後頭部はつるっパゲで逃げ足も速く、
気がついたときには通り過ぎているという……
幸福がそばにいるときには気がつかず、
杜撰に扱っているうちに幸福に逃げられてしまう
――あらためてそんなことを考えた。

「出窓にこの木がないのがちょっと気になったんだ。
気になる木なんだよな。別に不幸じゃないが、福を招きたくなってな」
コーヒーを飲みながら、室内を眺め回す私を妻が笑った。
「それならどうしてもっとドでかいのを買って来なかったの?」
「大きな幸福を枯らすより小さな幸福を大きく育てる方が楽しいではないか」

この家の喜怒哀楽をさりげなく見つめて来たであろう幸福の木
三代目に何よりも願うのは、夫婦二人の生存中、無事に家がもってくれることだ。
そのためには早目に修理してやろう、ガタの来始めた家に労りの気持ちを抱いた私だった。

家を大切にするということ

家を大切にするということ

猪野祐介 さんの投稿作品:

昔は、みんな貧乏でした。田舎は特にそうでした。
隣り合った家同士は支えながら建っているように見えました。
その中でもとりわけ貧しかった私の家は、
林業で生計を立てるのにかなり苦労をしていました。
林業というより、きこりさんといった方がしっくりくる気がします。

大雨でなければ両親は休みなく山へ出かけていましたので、
わたしが学校から帰り「ただいま」と叫んでも、
ほとんどの場合返事が返ってくることはありませんでした。
しかし、私は鍵っ子ではありませんでした。鍵がありませんでしたから。
鍵をかけずに出かける両親に泥棒が入ったらどうするのかと尋ねたことがあります。

「おらが泥棒なら、この家には入らんわえ。」
「この家に入った泥棒は、取るものがなさ過ぎて、何か置いていってくれるかもしれんよ。」
そんな豪快な両親の息子が自分であることを今は誇りに思えます。

私たち家族が借りるまで倉庫として使われていたその小屋は
たった3000円の家賃でした。鍵もなく玄関もなく風呂もトイレもないその家は、
間違いなくわたしたち家族の家でした。
裏の竹藪から伸びてきたタケノコが居間の床を突き破っても、
それを笑い話に変えてしまう温かい家族のいる場所でした。

わたしは、雨の日が大好きでした。両親が家にいてくれるからです。
本当に何もない我が家では、雨の日には何もすることがありません。
屋根から落ちてくる雨粒を見ている記憶が優しい空気とともに思い出されるのです。

学校が休みの日には、父の運転するトラックが幼い私たち兄弟を

山に連れて行ってくれました。そのときの記憶は必ずチェーンソーの音とおがくずの香りを伴って呼び戻されます。
小学校1年生くらいのわたしに、「おまえも手伝わんか。」と笑いながら言う父。
木材を扱うわけですから、小さい私には1本も持てません。
へっぴり腰に「うううん、うううん。」とうなっている私を見て
さぞ目を細めて笑っていたことでしょう。

腹時計か地域のサイレンで昼時を知ると、母と幼い兄弟は小枝を集めました。
山には取り切れないほどの燃料があります。
集められた枯れ枝を母は太さごとに手際よく仕分けをして、
小さな小山を作り、マッチ一本で魔法のように火をおこします。

山のランチは大胆です。まず、お茶。山のお茶は煮る。
水を入れたやかんに直接お茶の葉を入れて煮込みます。
次におかず。新聞紙で包んできた魚のひものをナタで削った串に刺して焼きます。
あっという間にうまそうな匂いがしてくるのです。
両親の弁当缶には、ごはんがぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、
父がそれをわたしたちに分けてくれました。
わたしたちの茶碗は、いつも弁当缶のふたでした。
ごはんをおおかた食べると、そこに煮込んだお茶をかけて掻き込みます。

山で食べる冷たいごはんと煮込んだお茶。おかずはいつも干物。
それが信じられないくらいうまかった。
父の切った切り株に座り、風が吹くと時々砂も一緒に食べなければならなかった
その場所は、日々の仕事の進み具合で決まるので、
同じ場所で食べることはまずありませんでした。
しかし、そこも間違いなくわたしたち家族の家でした。

屋根も壁も何もなくても、
尊敬する父と優しい母に見守られた温かい家族のいる場所でした。

わたしは、やっと最近家を建てました。
どんな家にしたいかよく話し合い、妻と協力して建てた家です。
ご近所さんへの見栄も手伝い、自分のサラリーでは
少し厳しいローンを抱えることになりました。
窓を開けると風通しがよく、締め切ると機密性が高い。
夏涼しく冬温かいこの家は、最近の家の例に漏れずよくできています。
もちろん鍵もトイレも風呂も付いています。

しかし、わたしを育てた両親のことを思い出すたびに、
この家がわたしたち家族にとって本当によい家かどうか考えてしまうのです。
タケノコが床を突き破ることは絶対にないけれど、
買ってきた家具の角が壁紙に傷を付けたことはありました。
その傷を苦々しく見つめて、運んできた運送屋さんのことを悪くいうのは、
どうやら間違いです。

家を大切にするということは、そんな低い次元の話ではありません。
家主として、親として、本当の意味で家を大切にできる自分でありたい。
心からそう思うのです。

大きな舞台

大きな舞台

ふーみん さんの投稿作品:

「おねえちゃんがいるからね。だいじょうぶだよ。おもちゃとってあげるからね」

そっと閉めたリビングの茶色い扉越しに聞く長女の声は、
いつも誇らしげで自信に満ち満ちている。
二年前に引っ越してきたころは少し席を外しただけでワンワン大泣きしながら、
洗面所からトイレの中まで必死の形相で追いかけてきたというのに、
ずいぶんたくましくなったものだと、思わず笑みをこぼしてしまう。

次女を妊娠中に大きなお腹を抱えながらだっこで下りていた階段も、
今では手をつなぐことなく手すりをつかまってトントントンと軽やかに上り下りし、
「外に行く―」とジタバタ足を蹴り上げながら引っくり返っていた玄関先では、
「バイバイ」と元気にお見送りをし、
「もっと、もっと」と足にしがみつきながら激しくおかわりをせがんでいた台所では、
いっしょに玉ねぎの皮をむいたりレタスをちぎったりと
お料理のお手伝いを率先してしてくれるようになった。
ずっと片言だった言葉も二歳半ごろから途端にどんどん覚えて、
今や寝るとき以外ずっとおしゃべりし放題だ。

「気をつけて。ちゃんとよく見るんだよ」

「早くしないと、間に合わないよ」

やさしいお姉さんは、ときおり口うるさくも頼もしい
お母さんの顔を覗かせたりもする。とはいえ、まだまだいたずら真っ盛り。
テレビや床にクレヨンで落書きしたり、壁にシールをペタペタ貼ったり、
大声で駄々をこねたり、姉妹喧嘩をしたりとわがままなところも
もちろんたくさんあるが、これからの成長がますます楽しみだ。

早くも傷やしみがあちらこちらについた小さな一軒の我が家を、
大きな明るい舞台として、かわいい娘たちの朗らかな声が、独創的な面白い絵が、
そして家族のとびっきりの笑顔が、響き、彩りあふれる、
そんなすてきな住まいを家族みんなでつくっていきたいと思う。

大きな玄関

大きな玄関

山のなか さんの投稿作品:

昨年の夏、家を少し改築することとなった。
わたしの実家は一昨年まで酒屋をしていて、お店を閉めてから改築が決まった。

酒屋の入り口はわたしにとっては大きな玄関でもあった。
そしてわたしの最初の記憶が始まるのも、この大きな玄関なのであった。

2歳かそれくらいの頃、
まだわたしが保育所へも行っていない頃の記憶がひとつ残っている。
お昼寝の時間であろうか、祖母はわたしを背負い、
子守唄を歌いながらお店の中を歩いてくれた。
これがわたしの最初の記憶である。
暖簾の下をくぐったこと、歌ってくれた歌のことは今でも覚えている。

少しばかり大きくなり、保育所に通い始めた頃、わたしは酷い人見知りだった。
店を覗きにでては、逃げるように戸を閉めて戻るのだった。
それでもそうして続けていると、だんだんと常連さんである、
近所のおじちゃんたちに慣れてきて、話もするようになった。
店を覗くのが、いつの間にか楽しみになってしまった。
近所のおじちゃんたちの中で、最初に覚えた3人は、
言うまでもなくうちのお店の常連さんであった。

小学生になっても、店はやっぱりわたしにとっては玄関であった。
田舎の小さな酒屋であるから、お店に来る人も殆どが知った顔だ。
わたしが「かえりました〜!」と店の戸を開けると、
祖父母ではなくお客さんが「××ちゃんおかえり!」と
迎えてくれることもあった。

また、お店にお客さんのいない時は、「わたし!」と大声で口にし、
客ではないことを中にいる祖父母に知らせようとしたりもした。
それでも時には、今は亡き祖父が庭から急いで戻ってきたり、
祖母が階段を駆け下りてくることもあった。
わたしの大切な思い出のひとつだ。

「いってきます」
「いっておかえり」

「かえりました」
「おかえり」

お店の入り口は、沢山の人と言葉を交わし、
毎日誰かに見送られ、迎えられる、大切な場所だった。

そしてもうひとつ、ここがわたしにとって、
そして家族にとってとても大切な場所であった理由がある。
入学式、卒業式、お正月、姉の成人式、わたしの成人式、
いつだってここで写真をとった。
お店の前で、大きな玄関の前で、写真をとった。

改築が決まって、わたしはまず、お店の写真をとった。
わたしにとってのかけがえのない『大きな玄関』を、大事に写真に収めた。
いつもは前に誰かが立って撮っていた写真。
この大きな玄関を主役に撮った初めての写真だった。

沢山の人とここで出会い、言葉を交わした。沢山の人が出入りした。
節目節目の写真はいつもここだった。
わたしや家族の成長を見守ってくれていた、本当に大切な玄関だった。

家は改築され、玄関は新しくなった。お店はなくなった。
それでもわたしは絶対に忘れない。
そしてアルバムを開く度、沢山の思い出を思い出すのだろう。

待ってるから

待ってるから

もんちゃん さんの投稿作品:

月に新築して3月に震災。
以来、避難所、仮設アパート、空き家借り上げと、住み替えを繰り返している。
兄姉に反対されながら、応急の家に住み続けているのは、待っていてくれる愛家、
マイハウスがあるから。

帰宅困難区域にある生家は築30年ということもあり、
天井が落ちて2階は壊滅状態。1階に波及するのは時間の問題。
帰宅準備区域にある婚家は、葛のつるに庭も家も占領されたものの、
中は新築の匂いがする。

本箱が倒れて開かない書斎は別として、FPの家の気密性はグー!
震度7に耐えて、壊れたのはサッシの錠だけというタフさ。
さすが吟味して建てた家だけはあると、我が子のように褒めてみる。

この五年、教員として共働きの私達家族は、家族別居や転校の憂き目に遭ったが、
「帰ろうマイハウス」を合言葉に前進して来た。
被災者には帰宅を待つ選択と別の土地で再出発する選択がある。
カビ臭い仮の家で呼吸器を痛めながら暮らす私たちを罵倒する声があることも承知。

賠償金を有効利用して健康な暮らしができる家を建てればいいのにと、
いろんな人から言われる。服に染み付く古家のニオイに、いじめられていないだろうか
と不安がないわけじゃない。
愚痴一つ言わずについて来てくれた二人の子には感謝である。

ともあれ私たちには聞こえる。
「待ってるから!」

蔦や葛やオオバコやらの雑草魂が発しているのか、
マイハウスそのものの声かは知らねども。
被災から逃れて穏やかに暮らしてる人にはわからないと思うが、
狭さは家族の笑顔を奪うとは限らない。四畳半の仮設でも、
かび臭い空き家でも、住めば都。

家族にありがとう、住まいにありがとう、
たびたび住み替える私たちだけど、持ち家のない哀れな人と同情しなくていいよ。
大切なのは住まう人の心構え。私たちは今もいつも笑ってるから。
父の墓も、目の前の除染作業を見守ってくれてる。

掘られた「鋭」の一文字が、卑屈になるな、笑えと言ってる。

古い社宅の思い出

古い社宅の思い出

moka57 さんの投稿作品:

主人が家を建てようと決心したのは、30台前半。
住んでいた社宅が相当古く、暖房や風呂の燃料は石炭で、
冬はすきま風が入り寒く、部屋の天井には謎の三角形の穴があって、
ネズミが出入りし、そのうち主人の蔵書の重さで床がぬけたりしたりと、
この社宅で子育てはできないな〜と感じたからだそうです。

しかし、時はバブル、土地探しをしても、なかなか金額的に折り合わず、
抽選で当たった土地に早速、家を建てました。
小さな家で夫婦二人の部屋は寝室だけとなりましたが、
娘2人には、個室を作るんだと頭を悩ませながらも
なんとか実現することができました。

それから、20年、娘二人とも結婚をして家をでましたが、
主人は、家を出る前日、和室で両親に三つ指ついて、
「お父さん、お母さん長い間お世話になりました」
という場面を期待していたのですが、
今の時代そんな光景があるはずもなく、
「じゃぁね」と軽く、涙もなく家を出て行きました。

夫婦二人だけとなった今、
昔のオンボロで小さな部屋しかなかった社宅での生活にも
小さな幸せがあったとしみじみと感じています。

ダブルケアの家

ダブルケアの家

kuroko さんの投稿作品:

集中治療室で生死をさ迷っていた義父。
一命を取りとめたが、左半身麻痺と高次脳機能障害が残った。
寝たきりで週三回の透析通院があるため、
自宅での介護は難しいと病院からアドバイスを受けた。
周りからの支援に感謝しつつも、私たち夫婦は義父と住める家を探していた。
半年後、介護をスタートするためにマイホームを手に入れた。

新婚ほやほやの新築の家には介護用ベッドと医療機器が所狭しに入った。
妻の父との同居について、周りからは不思議がられることが多かった。
その度に「人の行き来がある家が好きだから」と答えた。
実際のところ、毎日のように訪問介護員や
リハビリの先生が我が家に出入りしていて、
新築の余韻にも浸れないほどに忙しかったことを思い出す。

二年後、待望の赤ちゃんを授かり、介護と育児が同時進行する家となった。
介護と育児の同時進行のことを最近ではダブルケアと言うようだが、
我が家でも子どもが小さい頃は大変なことが多かった。
目を離した隙にベッド下に潜り込んだり、
車いすに頭をぶつけたりの日々だった。
大変なこともあったが、介護と育児が融合しているからこその

良い場面も多くあった。一歳になったばかりの長男が、おじいちゃんの車いすを意識的に押そうとしたり、
私たちの介護場面を見て、食事介助を手伝ってくれる日もあった。
言葉も話せない小さな子どもが表情で会話をしている姿を見ていると、
一歳の介護士がいてくれて頼もしいと心が救われることも多かった。

義父との同居から九年。今も我が家でのダブルケアは続いている。
変化といえば、我が家の介護士が三人に増えたこと。
学校から帰ってくると、真っ先に義父のベッドに向かう三兄弟。

「ただいま〜。今日なぁ。学校でなぁ。かけっこしてコケたぁ」
絆創膏を自慢げに見せる四歳の次男。

「じぃじは、どうやった?しんどかった?病院は?」
息をつく間もなく喋り続けている。

隣りでは一歳になる三男がベッド柵で遊んでいる。
その側にいる長男が「ここ、危ないなら触ったらあかんで」
と介護の先輩ぶりを発揮している。
子ども達の関わりを眺めていると、
義父に介護が必要ということを忘れてしまう。
子どもは大人以上に寄り添い向き合っていることに気付かされる。

時には子ども達の動きに合わせ、義父もリハビリを開始する。
子ども達の歌声に合わせ義父も歌う。
義父にとっては口腔のリハビリ訓練である。毎日が忙しい。

義父が倒れた時には想像もできなかった賑やかなダブルケアの家。
これからも家族の思い出を重ねていきたい。