「ありがとう、わたしの家」賞

5名様:JCB ギフトカード1万円分

3世代を包んでくれた家

石井さん

母の介護のため、思いがけず故郷に舞い戻ってきた。
瀬戸内海の小さな島。そこに私を含む一男四女と両親が暮らしてきた家がある。
この家は、私が十三歳の時に父が建てたものだ。それまで住んでいた家は、元禄時代からあったという狭くて薄暗い麦わら葺きの家だった。
雨漏りもひどかった。子どもはどんどん大きくなるし、暮らし向きも少しずつではあるがよくなっていたのだろう。
父は一大奮起して家を建て替えることにした。土間の片隅を改造して作った三畳ほどの台所で、楽しそうに設計図を描いていた父を覚えている。

大工さんは、島で一番腕がいいと言われていた親戚筋の棟梁に頼んだ。
気難しくて弟子が長続きしないため、ほとんど棟梁一人で作業をしたものだから、着工から一年近くかかってやっと完成した。

私たち子どもには年相応に部屋が与えられ父は狭い庭に小さな築山と池を造った。それが父の長年の夢だったのだ。

新しい家に家族七人が揃って暮らしたのは四年間。
子どもたちは仕事や結婚のため順番に家を出て行った。
私も十八歳で家を出てから、そのまま横浜で仕事と家庭を持ち、実家には夏休みに二、三日変える程度だった。
生活手段に乏しい島ではそのパターンが普通だった。
幸いなことに、兄が会社を辞めて、実家の石材加工、販売の仕事を引き継いでくれた。
家は、兄の新たな家族を迎えて再び昔のように賑やかな時間を持つことができた。
さすがに二世帯では手狭になり、すぐ隣の土地に新しい家を建てたが、食事は一緒だった。

やがて父が亡くなり、小さな池は埋められた。兄の子どもたちも一人ずつ外に出て行った。
バブル経済が破綻して家業が立ちゆかなくなった頃、兄が肺癌で亡くなった。六十歳になる前だった。
八十六歳の母は、一人息子に先立たれて、幼児のように声を上げて泣いた。
二軒の家に、母と兄嫁だけが残された。

夏休みや法事で帰省したとき、年老いた母の日常がだんだん不便になっている様子が目につくようになった。
段差の多い入口で転ぶことが増え、古くなったトイレやお風呂が使いづらくなっていたようだ。

兄の三回忌が行われた晩秋、実家の荒れようと母のみすぼらしい身なりを見て、心を決めた。
ー実家に戻って母の世話をしようー

定年まであと一年を残していたが、もう待てなかった。
母はすでに認知症を発症していたのだ。
兄嫁は自分の生活で精一杯だった。
私の子どもたちはいちおう自立しており、夫の後押しもあって、翌年四月には故郷にUターンできた。
さすがに夫まで実家に入るには気が引けたので、近くに家を借り、私も実家と借家を行き来する生活を始めた。
四十一年ぶりの「我が家」だった。

二、三日の帰省とは異なり、建てて半世紀近い家はいろいろと問題があった。
とりあえず水回り全体をリフォームした。
母が入りやすい浴室とトイレができ台所も清潔で働きやすくなった。
他の部屋は壁や商事がぴたっと閉まるのには驚いた。動きもスムーズだ。
今は亡き棟梁だが、丁寧で狂いのない仕事ぶりが、半世紀近く経った今でも健在であることに深い感動を覚えた。

一階の母の部屋は、四畳半にベッドが置いてあるので少し窮屈だが、風通しが良くて過ごしやすい。
私の寝室は庭に面した八畳の仏間にした。

母の症状はだんだん進んでいき、妄想、幻聴、徘徊等、一通りの経験をさせてもらったが、デイサービスの利用や、姉妹たちの協力のおかげで、最後まで実家で介護することができた。
隣に診療所があり、往診や相談などすぐに応えてもらえたのも心強かった。

五年後の二月初め、一か月ほど寝たきり状態になっていた母は、家で静かに息を引き取った。
通夜も葬儀も、ひと昔前のように全て家で行った。
島の人たちが大勢お別れに来てくれた。

島で生まれ、島で暮らした母の九十五年。
十分生きた。
苦労も幸せも、たっぷり味わった。
これが人間の一生なのだ。
母の晩年に五年付き添えたことで、私にも悔いはない。

葬儀が終わった日の夜、久しぶりに借家に戻りながら、ふと気がついた。
もうあの家で眠ることはないのだと。
遠くの街で家庭を持ってからでさえも、実家はいつでもあるものと思っていた。
しかし、母が亡くなった今、私たちを見守り、兄の家族を見守ってきた家は、ひとまずその役目を終えたのだ。
リフォームしたおかげで、まだ現役でがんばれる家だが、これからどんな家族のドラマを見るとしても、もう、私の出番はない。

暗い道で立ち止まり、振り返って手を合わせた。今まで見守ってくれて、本当にありがとうございました。

母の死を悼むのとは違う涙が溢れてきた。

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