昭和二十八年、今から六十年以上も前に、僅か十一歳の時、母親を亡くした夫は、それ以来ずっと、父親と五人の男兄弟の家族で育ったからか、私と結婚して二人の娘に恵まれてからは、尋常でないくらい娘達を大切にした。
転んでケガをさせてはいけない、熱いものに触れて火傷をさせてはいけない、ブランコもスベリ台も目を離してはいけない、とそれは大事にした。
同時に、娘達の言うことは何でも聞き、欲しがる物はできる限り与え、勿論、大きな声で叱ったことなど一度もない。
まさに“掌中の珠”のように慈しんでいた。
そんな家族思いの夫の最大の夢は、借家住まいをしていた私達が、自分の家を持ち、そこから娘達を嫁に出し、やがては孫を連れて里帰りさせることだった。
そのために懸命に働いて、平成五年、念願だった家を新築することができた。
長女が十八、次女が十四歳の時だった。
設計の段階から、家の間取り、家具の配置、カーテン、インテリアに至るまで、全て私や娘達の思い通り、自由にさせてくれた。
そんな夫の希望は三つだけ。玄関と浴室は広く、天井はできるだけ高く、そして、夫婦の寝室には、セミダブルのベッドを二つ置くことだった。
私達にとっては、まさに夢のお城がようやく完成し、親類や友人、知人などお世話になっている人達を招いてのお披露目も一通り済んで、一段落して迎えた新居の一周年記念日。
夫は居間で、大好きなお酒を楽しむために自ら選んだ徳利とお猪口で、晩酌を楽しみながら「これで、二人の娘達が、いつ結婚相手を連れて来ても大丈夫だね。
結納は和室でやって、床の間には赤い毛せんを敷いて、昆布やスルメを飾るんだ。
僕達は結納をやってないから、良く勉強しておかないといけないな。」などと、上機嫌で話していた。今振り返ると、このころが幸福の絶頂期だったのかもしれない。
その三カ月後、文字通り「青天の霹靂」、平成六年九月、突然夫が外出先でくも膜下出血を発症。
私達の未来予想図は、儚くも予測不可能になってしまった。
救急隊の方からの連絡で病院に駆けつけた時は、かろうじて自力呼吸ができているだけの、超危篤状態の夫。
でも、運良く開頭手術ができることになり、その結果、奇跡的に一命をとりとめることはできた。
が、左半身マヒ、高次脳機能障害などの重度な後遺症に加え、全く病識が無いために、リハビリもできず、歩くこともできないまま、半年の入院を経て、在宅での介護を始めることにした。
当時はまだ、介護保険制度導入前だったので、たくさんの人のアドバイスを受けながら、介護用ベッドや車椅子など、必要な物を自分で選択し購入、そして、門から玄関までのスロープ工事が完成するのを待って、夫は帰宅した。
その瞬間から、先の見えない手探りの介護がスタートした。
それまで、介護の知識も技術も殆んど無かった私達家族にとって、それはとても苛酷なことだった。
手術後、ずっと記憶が混沌としている夫は、家族のことも理解できず、直近の記憶は皆無で、あんなに完成を喜んだ家さえも、自分の家だという認識ができずに、そのうえ、ずっと昼夜逆転していた夫は、夜中になると「家族が心配しているから、家に帰してくれ。」の一点張りで、仕方なくそんな夫を車椅子に乗せて、私は泣きながら家の中をグルグル歩きまわることしかできなかった。
そんな事が一年近く続き、やっと落ち着いてきたかに見えた夫が、今度は突然、寝室のことを思い出し、どうしても二階へ上がり、自分のベッドで寝たいと言い出した。
そして、二階の奥にある、二畳ほどのスペースの書斎に行きたいので、連れて行って欲しいとせがみはじめた。
しかし、到底二階には上がることができない、と日に何度も説得しているうちに、夫の脳裏にフラッシュバックのように記憶が甦ってきて、トイレに行きたい、お風呂に入る、などと、次々要求するようになった。
その度に、夫の夢がいっぱい詰まった家なのに、望みを叶えてあげられない切なさと、「もういい加減にして!」という思いがいつも葛藤する。
そんな繰り返しの中ヘルパーさんや訪問看護士、訪問入浴のスタッフさんなど、大勢の人が毎日のように出入りし、皆さんが口々に「立派なお家ですね。」とか「素敵なお家で羨ましい。」と言って下さると、夫は満面の笑顔で「泊まって行きなさい。」と答えていた。
あまりにも重篤な後遺症のため、歩くことは絶望的、と医師から宣告されている私達家族にとって、大好きな自慢の家で、ゆったり暮らしている夫は、病識がないことも幸いしてとても朗らかで、介護している家族も随分救われている。
その上、看護師さんの指導で、夫のオムツを外すことが出来てからは尚更に、みんなの気持ちも安定してきた。
多くの人との出会いや出来事で生まれ変わったように明るくなった夫。
そうやって夫の性格が明るくなると、私達まで影響されて、段々と考え方まで明るく前向きになってくるのがよくわかる。
夫が倒れたばかりの時は、新築した家のことや今後の生活のこと、娘達の将来のことなど、不安なことばかりで、茫然自失。
家を建てたことを後悔したこともあったが、この頃になってやっと、新しい家に住めることをありがたいと思い、心から感謝した。
やがて、平成十三年、十四年と続けて娘達が結婚。
二人とも結納はしなかったが、夫の念願だった広めの玄関から娘達を送りだすことができたし、その結婚式では、義兄に車椅子を押してもらって娘とバージンロードを進むことも叶った。
その後、長女夫婦は我が家に同居、次女も近くに住み、今や三人の孫に恵まれた夫は、中学生になった孫たちと将棋をすることが今一番の楽しみとなり、以前の夫のように優しく家族みんなを思いやりながら、穏やかに過ごしている。
毎朝のように長女が、二階で寝ている子どもたちを起こす時、階段下から上に向かって「もうこれが最後よ、二度と起こさないから、遅刻しても知らないからね!」と声を張り上げているのを聞いて「自分たちも昔は同じことを言われていたのにね。」と笑っている。
早いもので、在宅介護を始めてもう二十一年になる。
無我夢中で介護に追われ、苦しんだり悩んだり、不安になり何もかも投げ出したくなったりもした。
その都度、家族みんなで支え合い、協力して工夫しながら、乗り越えてこられたのは、身も心もゆったりくつろげる、あたたかい家が拠り所となっていた。
そして、いつも口癖のように「うちって良いなぁー。」と言う夫。
かつて、結納をする筈だった部屋に介護ベッドを置き、昆布やスルメを飾る予定だった床の間には、衣装ケースが積まれてしまった。
それでも、愛する家族に囲まれて、大好きな家で過ごすことができるのは、夫にとって、何ものにも代えがたい心のケアだと確信している。
でも、逆にその居心地の良さ故に、外へ出ることを億劫がり週一回のデイサービスの利用以外は、断固拒否。
つい最近になって、やっと月に一回、数日間だけ、渋々ショートステイに行ってくれるようになったのだが「僕を愛しているなら、ショートに行かせないで。」とか、「迷惑かけないようにするから家に居させて。」と、毎月涙目で訴える夫。
私もつい「行かないで家にいていいよ。」と言いそうになるが、私にとって、ゆっくり入浴できて、夜中も起こされることなく眠れ、撮り溜めしてあるDVDをゆっくり観ることがことができる、大切な至福の時間になってしまっているので、そこはグッと堪えている。
結局は、ショートに行く前と帰ってきた日に飲めるお銚子一本のお酒につられて、行ってくれることになるのだが、そんな家好きの夫のことを、いつからか周りの人達が『箱入りパパ』と呼んでくれるようになった。
夫は嫌がるが、私は結構気に入っている。
この次生まれ変わっても、また絶対に私と結婚する、と言ってくれる『箱入りパパ』のために私ができることは、夫より一日でも長く生きるための努力をすることだと、改めて肝に銘じている。