準グランプリ

3名様:JCB ギフトカード5万円分

家の役割

朝比奈はるかさん

父の仕事柄、子供時代はずっと官舎住まいだった。
二間続きの小さなスペースに、両親と四人の兄弟が身を寄せるように暮らしていた。
一番大きな六畳間は、リビングとダイニング、そして寝室の役割までこなしており、当然子供部屋なんてなかった。
誕生会を開きたくても、弟たちがいるあの小さな官舎に、友達を招くことはできなかった。
小学校に上がり勉強机を買ってもらって、それを「自分の部屋」に置く友達が羨ましかった。
我が家では、あのダイニング兼リビングのこたつ机に宿題を広げるしかなかった。

無理だと分かっていながら、自分の部屋が欲しいと泣いて訴えたこともあった。
両親は我が家で唯一の個室に「はるの部屋」と名前を付けてくれた。
三畳しかないその部屋には、狭いキッチンに置ききれない食器棚や、洋服ダンスが詰め込まれ、入口の戸を閉めると真っ暗だった。
ランドセルと勉強道具を持ち込んで、夜が来たらそこに布団を敷いたが、どうしても眠れず、弟たちと眠る母の布団にもぐり込んだのを覚えている。
結局「自分の部屋」は三日で放棄した。
官舎は狭いだけではない。父が転勤になるたびに新しい官舎に引っ越したが、どこへ行ってももれなく古くて汚かった。
お風呂はコンクリート剥き出しの床にすのこを敷いただけで、冬は痺れるような寒さだった。
どの部屋も畳に土壁が基本で、洋間なんてなかったし、オシャレな対面キッチンや吹き抜けなんてあるわけがなかった。

その反動からか、小さい頃からモデルハウスや完成見学会のチラシを見るのが好きだった。
流行の間取りで、最新の建材や家具できれいに彩られた家やマンションを見ていると心が躍った。
将来は、絶対に広くてオシャレな家に住むのだと幼心に決めていた。

そんな私が本格的に家作りについて考え始めたのは、結婚がきっかけだった。
夫と二人、大手ハウスメーカーの展示場巡りから始めた。
真っ白なクロス貼りの壁に、高級感のある床材。
どのメーカーでも、人工大理石のアイランドキッチンと開放感のある吹き抜けが人気だと言われた。
オシャレ居酒屋風の小上がりになった和室には、掘りごたつもあった。
夫婦の寝室には、寛ぎながらお酒を楽しめるスペースまであり、まるでホテルのスウィートのようだった。
まさに、幼いころ夢にまで見た、広くてオシャレな理想の家がそこにあった。

週末ごとの展示場巡りが定番になった頃、妊娠がわかった。
つわりがひどかったこともあり、家作りは暫しお預けとなった。
しかし、無事に長男を出産して、家事と育児に奮闘しながらも家作りを再開した時、私の家に対する考え方は、一八〇度変わっていた。
幼い頃の憧れを全て詰め込むはずだったマイホームは、家庭を守り、子供を育てるための場所になっていたのだ。

子供たちが走り回れるよう、リビング、ダイニングと和室は一切の段差をなくした。
壁は調湿効果のある珪藻土にして、床材には傷や汚れの目立ちにくい素材を選んだ。
寝室には、子どもが成長するまで家族が川の字で寝られるよう、畳のスペースを作った。
そして、子どもの頃に憧れた広くて勉強机の置ける子ども部屋は、最低限の大きさに止め壁も作らなかった。
代わりに、リビングの一番日当たりのいい場所に、教科書や学校の道具も置けるスタディコーナーを作った。

家は、自分たちの生活をオシャレに彩るツールではない。
家族がやすらぎ、絆を深め、子どもたちを育むための場所だ。
我が子を抱いて初めて、そのことに気づいたのだ。

思い返せば官舎住まいだった頃、こたつ机に宿題を広げていると、いつも母が下の弟の世話をしながら分からないところを教えてくれた。
小さくて震えるほど寒いお風呂だったが、父は兄弟四人を順番に入れながら湯船で話を聞いてくれた。
夜の九時には、テレビを消して家族6人布団を並べて寝ていた。
狭いけど、いや狭いからこそ、家族にとって大切な「家の役割」を果たしてくれていたのだ。
小さい頃の私は、それが窮屈で反発したこともあったが、親になった今、あの小さな官舎で育ったことに心から感謝している。

今度はこの家で、私が家族の生活を守り、子どもたちを育てていく。
どんなに意図して間取りを工夫しても、家はそのための場に過ぎない。
そこで暮らす私たちが、家族との時間を大切にし、互いの気配を感じながら生活していくこと。
私の両親がそうしてくれたように、家を、家族が繋がり、心安らげる場所にしていくことが、親としての私たちの役目だ。

子どもたちがこの家を巣立つとき、この家に生まれ、この家で育って良かったと思えるような「家」と「家族」を築いていきたい。

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