
小学生のとき、何かの折に持ち家のことを「マイハウス」と書いて先生から「マイホーム」に直されたことがある。
なぜ、ハウスではなく「ホーム」なのだろうと疑問に感じた。
子どもの頃に住んでいた家は2Kの小さな団地だった。父が病弱で一部屋は父の寝室専用だったため、もう一部屋で四人家族の残りの機能をすべてこなすという状態だった。幼いうちは良かったが、大きくなってくると夜遅くまで起きていたいことも出てくる。明かりや音が気になることが増えてくると、徐々に部屋が狭いことで兄妹ケンカが起きるようになった。
そんなある日、母が私と兄を呼んで「勉強部屋をあげる」と言い、まず兄に押入れを見せた。布団を取り出すと、中の壁に折りたたみできるように板が取り付けられている。手前に倒せば机に早変わりし、椅子の代わりにクッキーの空き缶が置かれていた。
「その缶にお尻を乗せて正座すれば、しびれることなく勉強できるから」と母。誰にも邪魔されない勉強部屋だ。兄はさっそくスタンド式ライトやラジカセを持ち込み、押入れに入り込んだ。
つぎに私が案内されたのは部屋に内蔵されていた大きめの収納箪笥。
箪笥をあけると中は空っぽで、押し入れ同様に折りたたみ式の板と空き缶が用意されていた。「狭いけど、がまんしてね。」母は申し訳なさそうに言ったが、私はすぐに気にいった。自分だけの空間ができたことがとにかく嬉しかったのだ。
無駄なものは持ち込めないほどの狭さだったが、椅子代わりの缶の中に文房具を入れたり、壁に小さな戸棚を取り付けたりなど、工夫して過ごすことが楽しかった。そしてなにより、このような改造をしてくれる母を自慢に思った。
しかし、母は当時の話をすると今でも嫌な顔をする。あの頃は兄や私に不憫な思いをさせたと言い、あまり思い出したくない過去のようだ。
当時、「広い家に住みたい」が口癖だった母。私が「こじんまりしている方がいいよ」と言うと、信じられないというように首を大きく横に振っていた。
あれから三十年、父はすでに亡くなったが、母はコツコツと働き、念願だった家を建てた。「できるだけ広くしたい」と、無駄な空間のない四角いマッチ箱のような家だ。外観を考えてもう少し「遊び」があってもいいのではと提案しても、一切受けつけられなかった。
完成して初めて屋内に入ったとき、母は満足げにリビングを見まわし、昔話を始めた。「私が子どもの頃はね、田舎の商家だったから家が広くてね、兄たちと相撲やかくれんぼをしたり、逆立ちしたりして遊んだの。お父さんが足を持って、お母さんが危なくないように座布団を敷いてくれてね……」
頬を緩めながら話すその顔を見て、ハッとした。母にとって「広い家」は幸せの象徴だったのだ。五人兄弟の真ん中で、女の子は母だけという家庭で大切に育てられた母。家族団欒のイメージは、「広い家で、家族で遊んだ思い出」に直結するのだろう。母が「広い家」にこだわり続けた理由がわかった気がした。
一方、私にとっての家は、母が私のために作り出してくれた「箪笥の部屋」のある空間であり、狭いながらも病弱な父を支えながら家族で助け合って暮らした場所。だからこそ、私は家へのこだわりに、あえて「こじんまりさ」を望むのかもしれない。与えられた中で、工夫して暮らす温かさが好き。家は「家族の生活」の象徴なのだ。
念願の「家を建てる」という夢を叶えた母はとにかく家を大切にし、壁や床に傷がつかないように気を配る。壁には画鋲ひとつ刺すことなく、張り紙さえしないで過ごしていた。以前、母が派手に転んだことがあったが、持っていたマグカップは握られたまま。「カップを落としたら床に傷がつくからね」と、痛そうに足を擦っていたときは思わず苦笑した。
そんな母が、孫ができて一変。やんちゃ盛りに入った姪が数年ぶりに遊びにくるというので、私も久しぶりに実家に帰ったのだが、一歩リビングに入って驚いた。部屋には風船やらゴムボールやら、子どものおもちゃがいっぱい。そして、壁にはティッシュで作られた花が張られ、天井からは母手製のくす玉がぶら下がっている。
「来たら、まずくす玉の紐を引っ張らせるの。」
姪を歓迎する言葉が書かれた垂れ幕が出てくる仕掛けになっているらしい。あっ!と思った。くす玉がぶらさがる先の天井には釘が打ちつけられているではないか……。
満面の笑みで母が言った。
「いいのいいの、楽しんでくれればいいの」
やってきた姪ははしゃぎ回り、母はいっしょになって遊んでいる。壁にぶつかろうが、床がクレヨンで汚れようがお構いなしだ。
母の幸せそうな顔を見ていて、ふと「マイホーム」という言葉が頭に浮かんだ。ハウスではなく「ホーム」というわけを実感した。
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