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『父の残したプレゼント』じゃきこさん(熊本県)

私は春と夏が大好きです。それは春には桜、夏には花火があるからです。どちらも美しく、しかし儚いものです。中でも夏が大好きです。汗の臭い。「この臭いは働いた証だ」作業着姿の父は土木建設会社に勤務していました。

そんな父は二級建築士の資格を活かして、「自分が設計した家を建てる」という夢をもっていました。

日当たりや景観を重視して、土地を探すのに1年。3姉妹の私たちを童話「3匹の子ぶた」に見立てて「煉瓦の家が一番いい。」とタイル張りではない「煉瓦」にこだわり更に1年かかりました。

煉瓦の他に間取りにもこだわりがありました。県をまたいで、煉瓦を使った建造物を何件も見た覚えがあります。遠目で見るとモザイク状ですので「どれが良かった?」と聞かれても、正直どれがどう違うのか分かりません。それでも、あれとこれは違う。とかこっちの方がいい。などと選びに選んで煉瓦が決まりました。

間取りは2階建てに憧れていた私たちの意見を一喝して平屋にこだわり、天窓のある吹き抜けの天井、小さな小さな小さな庭の付いたお風呂、部屋にできそうなウォークインクローゼット、小学生だった私たちは1人1部屋の子ども部屋が当たり前だろうと思っていたのですが、できあがったのは1人当たり4畳半×3、約12畳。3人で1部屋でした。

そして大きすぎるリビングの窓。今、その大きな窓からは住宅地が見えるのですが、できあがった当時は田んぼしか見えませんでした。大きすぎる窓のせいで、その田んぼのあぜみちから我が家の様子は丸見えでした。「あ、あれはお父さんだ。」「台所に電気が付いた。お母さんが帰ったんだ。」なんて分かって、窓がどうしてこんなに大きいのか私にはずっと謎でした。

父は家族に意見を求めましたが、「それはダメだ」と却下され、結局あらゆることが父「わがまま」の「マイホーム」。図面を自分で引き、土台となる基礎作業を自分が勤務する会社に依頼し、土地を探し始めてから5年後ようやく完成しました。

中学2年の時に完成した家。私は大学進学までの5年間住み、関東へ出てひとり暮らしをはじめました。しかし、建ててから10年も経たない頃、父は勤務先で突然倒れこの世を去りました。遺言も遺書も無く、ただただ大きな大きな家を遺して。

あれから10年、次女と三女、祖母と母が4人で住んだ時期もありましたが、祖母が亡くなり、妹が結婚、就職したため広い家には母がひとりになってしまいました。私は色々と考えて三十歳を機に実家に帰ることを決めました。

父がいた頃は手付かずだったただ地面がむき出しになっていた庭、玄関に積んであった余った煉瓦で敷き詰められ、母の手によってちゃんとした「庭」になっていました。しかしそれでも煉瓦は余り、それらは墓石となりました。5年かかって建った家、父亡き後母によって完成した庭。我が家はまさに両親がつくりあげたものです。

今は母と私の二人暮しですが、毎年夏になると市の花火大会がリビングから一望できるので親戚が集います。昨年の花火大会で従姉妹の「この大きな窓は花火を見るのにちょうどいいね。」と言う一言に、母が「お父さんが『ここからはちょうど花火が見えそうだ』と言って大きな窓にしたのよ。」と返して、長年分からなかった大きすぎる窓の謎が解けました。

窓から見える景色は田んぼから住宅地へと変わりましたが、去年の夏も見事な花火がリビングから見ることができました。市の一大イベントの花火大会は家族みんなの楽しみでした。偶然に見えるのだと感じていたのですが、花火が見える大きな窓にはそんな理由があったのでした。

二人では広すぎる我が家ですが、高校時代の友人や妹の家族、親戚が集う時など20人は入る広いリビングにモダンな外観、高い天井の玄関が特に私の自慢です。「実家に帰りたい。」そう思ったのも故郷が好きだということだけでなくこの家があったからです。

お父さん、お母さんありがとう。大好きな私のマイホーム。この先もきっとたくさんの人たちの笑顔が集まる場。大切な大切な宝物です。

今年も大好きな桜が咲きました。花火の季節も近づいてきています。

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