「あ、お兄ちゃんも来てたの?」
「おう、もう帰るけど。じゃ、またな」
仕事帰りに実家に顔を出すと、ちょうど兄も来ていて、庭先で入れ違いになった。なんとなく兄の様子が普段と違う気がして引っかかった。難しそうな顔をしていたというか…。
「こんにちは!」と挨拶して家に上がる。
「いらっしゃい!」リビングのソファに腰を下ろして、テレビを観ていた父が、ぐっと目尻を下げて、いつもと変わらぬニコニコ笑顔で迎えてくれた。そのまま隣のキッチンに行き、兄が飲んだ形跡のコーヒーカップを片付けている母にさりげなく尋ねてみた。
「お兄ちゃんも来てたみたいだけど、なんかあった?」
「まあね。お兄ちゃん、そろそろ同居しないかって、話をしに来てくれたんだけどねえ…」
母の表情は晴れず、妙に歯切れが悪かった。
「えっ?そうなの?良かったじゃん!これで一安心だね。でもお母さん、浮かない顔してるけど、なんか問題でもあるの?」
長男一家との念願の同居なら、母にとって喜ばしい申し出のはず。なのに、なぜこんな憂鬱な顔をしているのか、不思議だった。
現在、実家は父との二人暮らしだ。兄、私、弟、三人の子供達は皆既に結婚し、家を出た。とは言え、私は実家から徒歩二分のマンションに住み、兄は徒歩十分のアパートに住んでいる。そして、弟も車で数分の同じ町内に住んでいる。但し、弟に限っては、一番末っ子のくせに、兄と姉を差し置いて二年前に一軒家を購入し、今や一国一城の主なのだ。
「それがねえ、お父さんが、同居はしないってきっぱりお兄ちゃんに断ったのよ」
母は、リビングのソファに座っている父を微妙な目で見遣り、ふうっと溜息を吐く。
「えっ?お父さんが?嘘でしょっ?なんで?」
私は驚愕の余り、素っ頓狂な声を挙げてしまった。まさか、お父さんが?信じられない。
祖父が他界する前の年に、父が新たに建て替えたこの家は、将来的に長男一家が同居するという設計のもとに造られた。
「見ろ、『鋭一郎邸』だぞ!」と誇らしげに完成したばかりの新居を見上げていた父。なのに、なぜ?兄一家との同居を最も強く望んでいたのは他ならぬ父本人だったはず。
「お母さんもびっくりよ。寝耳に水だわ」
母は落胆の色をありありと浮かべる。
兄は昔気質の古風な性格だ。長男意識も強かった。恐らく、十数年前に亡くなった祖父の影響だろう。祖父は茶道の師範だった。我が家は地元では名の知れた旧家だ。家名を重んじていた厳格な祖父は、兄に幼い頃から事あるごとに家を継ぎ、守っていく長男の使命を教え込んで来た。祖父は、女の私や、末っ子の弟には世間並のおじいちゃんらしく甘かったが、兄にはこと厳しかった。だから兄も、長男の自覚を強く持っていたのだろう。義姉を初めて実家に連れて来て、結婚の報告をした時のことだ。母は義姉に言った。
「この子は長男ですから、ゆくゆくは同居をしてもらいますが、それでもいいですか?」「勿論そのつもりです。プロポーズされた時に、彼からもそう強く言われましたから」
あの時、義姉はにっこり笑って断言した。
やおら、母は複雑そうな表情で話し始めた。
「お父さんはね、こう言ったの。お兄ちゃん一家がここに住んだら、ゆかりと健二が、お兄ちゃんの家族に気兼ねして、寄りづらくなってしまう。この家は、ゆかりと健二の家でもあるんだ。だから、子供たち三人が誰でも、いつでも来たい時に気軽に来ることができる家であるべきだって。この家は、子供たちにとって何かあった時、真っ先に帰れる最後の砦にしておきたいんだって。だから、お兄ちゃん一家とは同居しない。いつでも子供たちを迎えられる家にしておくって」
胸に熱い感情が込み上げ、涙が溢れた。
父は、やっぱり私たち三人の子供たちの父だった。昔からずっとそうだ。三人とも分け隔てなく平等に育て、愛情を注いでくれた。
「お兄ちゃんも納得したわ。じゃあ、お父さんとお母さんの身に何か起こった時はすぐに駆けつけられるように、せめてこれからも近くに住み続けるよって。ゆかりも健二も近所に住んでるんだし、子供らがいつでも帰れる家にするってことなら、皆が協力し合って、歳とった親の面倒もみていけばいいかって」
仕方ないわね、と呟いた母の顔も納得していた。兄は親思いだけど、妹弟思いでもある。だからきっと父の気持ちも分かってくれた。「いらっしゃい」と、今日も変わらぬ笑顔を浮かべ、この家で私を迎えてくれた父。何事もなかったように振舞い、恩着せがましい言葉の一つも零さずに。さすが、一家の大黒柱だ。やっぱり父には敵わないや、と苦笑する。
リビングでテレビを観ながら、呑気に爆笑している父へ心の中でそっと感謝を告げる。
ありがとう、お父さん。これからもずっと、近くにいるから、困った時はお互い様だよ?