洗濯乾燥機のディスプレイに表示されたエラーメッセージを見て私は途方にくれた。
洗濯乾燥機の扉を開けてみる。昨晩セットした洗濯物はまだ湿ったままだった。
乾燥ができていない。洗濯乾燥機が故障してしまったようだ。ワーママである私の朝一番の仕事は、洗濯物の回収だ。
我が家は、保育園に通う2人の子どもがいる。
共働きの我が家が2人の子供を育てながら育児と家事を回すのに、洗濯乾燥機は必要不可欠だ。
毎日でてくるたくさんの洗濯物を、夜に洗濯乾燥機に放り込み洗剤をセットする。
そうすると朝までに乾燥が終わっている。
朝、まだ暖かい家族の下着、Tシャツ、タオルを洗面所の引き出しにしまい、保育園にもっていくエプロンや着替えを保育園バックにセットする。これが私達家族の日常だった。子どものエプロンや着替えはあまり予備がない。我が家にとって洗濯乾燥機の故障は日常の崩壊を意味する。
私は手早く洗濯物を干し、会社に行く電車の中で母にLINEした。
「洗濯機が壊れちゃったんだけど、夕方洗濯機借りにいってもいい?」
「うちの隣に引っ越さない?」
母から打診があったのは妊娠がわかってすぐだった。最初にその提案を聞いたとき、私はぎょっとした。
遠距離恋愛を終わらせめでたく結婚して1年。私達夫妻は2人の、のんびりした暮らしを楽しんでいたところだった。私の母は心配性で過干渉気味だ。実家にいた時の調子で家事や育児に口を出されたらたまらない。最初に芽生えた感情は、嬉しさよりも煩わしさだった。
先日、一足先に結婚した友人はお母さんとのやり取りで苦労していると愚痴っていた。義理のお母さんとのやり取りではない。実のお母さんとのやり取りだ。そして、前の日に入ったカフェで、隣のテーブルにいた「おばあちゃん」同士と思われる女性たちの会話が頭に蘇る。
「この前また孫の面倒おしつけられてねぇ」
「おばあちゃん」たちが愚痴っていたのはお嫁さんのことではない。実の娘ことだ。
実の母親との近居は結構めんどくさいのではないだろうか。正直あまり気が進まなかった。
でも、と私は思った。私のおなかの中にはすくすくと育っている赤ちゃんがいた。この子を産んでからも仕事を続けたい。そして、出産後復職することを思えば実家が近いに越した事は無い。
私は「働く自分のため」に近居を選んだ。
あれから5年が経った。近居してみて、自分が間違っていたことに気づいた。
働く自分が楽だから。近居の醍醐味は実はそこではなかった。
夕方、スマホを見ると母からの返事が来ていた。
「OK(スタンプ)」
私は安心して子供達2人を保育園に迎えに行った。
保育園の洗濯物入れには、今日もたくさんの洗濯物が詰まっていた。
帰宅して夜ご飯を食べている時に子供達に伝えた。
「今日は洗濯機が壊れちゃったから、夜ご飯食べたら、ばあばの家に遊びにきまーす!」
「よっしゃ-!」
2人はじいじとばあばの家が大好きだ。
私は2人の子供にご飯を食べさせてから、お隣の実家に向かった。
たぶん近居にはコツがある。
それは親と子がお互い一人一人の独立した大人であると、尊重しあうことだ。だから私たちは、洗濯機を借りに行くからといって、夕食までご馳走になったりはしない。もちろん、体調が悪い時は頼ったりもするけれど、夕食を一緒にとるのは、前もって予定を調整してから。それは大人の友達と同じ関係。
自分が「大人」になってからの近居は心配していたほどの煩わしさはなかった。頼りすぎないよう頼られすぎないよう。私はたまにそのバランスを意識する。
「じいじ! これ見て!」
5歳の長男が今日の保育園のお散歩で拾ったピカピカのどんぐりをじいじに見せている。
「じいじ!」
2歳の次男も負けじと保育園のお散歩で拾った「石」を見せている。どちらも彼らにとっては宝物らしい。
じいじは「そうかそうか」と顔をほころばせる。
自分にとって大切な人が笑顔でいるとき。それが1番の幸せだと私は思う。自分の親と自分の子供が笑顔でいるとき。これ以上に幸せなことがあるだろうか。近居は私にそれを教えてくれた。近居の1番の醍醐味はここだ。近居することで人生におけるその機会が飛躍的に増えるのだ。
私はいつも実家に駆け込んだ時に子供達が脱ぎ捨てた靴を並べながら、この幸せ感をかみしめるのだ。