三鷹駅開業により文人が移り住む。
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| 昭和年代の三鷹橋と三鷹駅 |
甲武鉄道(現・JR中央線)が開通した明治22(1889)年に武蔵境駅、その10年後には吉祥寺駅が開業。大正末期、現在の三鷹市付近は56戸の民家が散在していただけで、一帯は畑地であり、都心へ出るには吉祥寺駅で乗降していた。そこで、禅林寺が大正13年11月、駅設置請願書に地方有志の記名捺印を求め、東京鉄道局長に提出。間もなく武蔵野市からも駅設置請願書が出された。禅林寺はその寺地750坪を駅の敷地の一部として寄附(現在も禅林寺の所有地)し、当局は車庫敷地等の買収に着手、昭和5年6月25日に待望の三鷹駅が開設。昭和8年には帝都電鉄(現・京王井の頭線)の井の頭公園駅と三鷹台駅が開設された。

新田開発に源を発する下連雀の街並み。
現在のさくら通りは、かつて玉川上水の分水の一つ「品川用水」。神田の連雀町から移住した人々は、品川用水の水を使って畑作を行い、「東西65メートル、南北720メートルの短冊形の地割り」の農家が、連雀通りに沿って南北に並び、橋場と呼ばれた南浦交差点(連雀通り/禅林寺前から東へ約400m)が村の中心だった。下連雀は、昭和44年の住居表示で一部地域は変わったが、江戸時代の連雀新田当時の土地区画の跡をよく残している。
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品川用水は戦後、昭和26(1951)年からの工事で暗渠(おおいをした水路)化され、さくら通りは幅9メートルの市内初のアスファルト舗装道路となる。 |
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